今でも根強く残る、関ヶ原合戦以降の徳川の築城政策を「大坂城包囲網」とする見解について.。

 

確かに美濃加納城、近江彦根城、丹波篠山城、など平時の軍役としての大名手伝普請の形でとしての実施し、徳川への忠誠心を確認することとなっている。さらに姫路城には縁戚関係にある池田輝政を置いたりしており、確かに、大阪城は包囲され、豊臣に対する徳川の優位性を示すことにもなっている。

 

しかし、包囲網説を採用する方々に伝えたい。丹波篠山城普請には、大坂の七手組が参加していることを(高知県立高知城歴史博物館蔵 山内家資料のうち「長帳]収録書状)。なぜ、秀頼は、自分を包囲する城の建設に、自分の上級家臣を参加させるのか。論理的におかしな話である。

 

加えて、包囲網説をとる方の少なからぬ人々は、慶長16年の二条城会見によって秀頼は徳川家に臣従したとするが、篠山城普請はその2年前の14年。まったく事実関係の整合性にかける話である。仮に14年には徳川の普請へ協力し、16年の段階で臣従したなら、2年の間に徳川・豊臣両者になにがあったのかを、政治史に乗せながら説明しなければならないはずだが、現在のところ、そのような仕事は見受けられない。

 

当方は、一連の城郭政策は、あくまで徳川勢力の畿内や西国進出のためのものであり、それに諸大名を動員するのは、前述のように主従関係を深化させる目的であったのだろう、という位に考える次第である。

 

本来は、慶長16年後の政治情勢も考察した上で、徳川の城郭政策の評価は可能だと考えるが、まずは、異議申し立てまでにて。

以前、九州の穴井綾香さんも、さらり包囲網否定論を書いていましたけど、新事実などを加え持論を述べてみました。