以下は、武蔵国男衾郡畠山村(現埼玉県深谷市内)の古文書で、江戸時代の古文書を調査していると頻出する、質流れ証文です。
質流地證文之事
下畑九畝拾九歩
下畑拾四歩
弐口〆壱反拾三歩
代金拾両也
一右之畑貴殿方江質流地相渡申候所実正ニ御座候、地代金不残請取相添申候、然上は貴殿名帳入置、御年貢諸役等之義は御勤永々御支配可被成候、右之畑親類地訳不及申、脇より構無御座候、為後日仍而流地證文如件
地主
文化十酉年 三郎兵衛(印)
地訳
金右衛門(印)
證
新左衛門(印)
組頭
惣右衛門(印)
名主
弥兵衛(印)
源左衛門殿
(奥異筆.加筆)
「右親類之義故何年相立候共代金遣シ候節は御返可被下候」
〈現代語訳〉
質流れ証文の事
下畑九十畝十九歩
下畑十四歩
二口合わせて一反十三畝歩
代金十両のこと。
一右の畑はあなたへ質流れ地として差上げることに相違なく、地代金は残らず受け取りました。年貢や諸役などは長くにあなたにてお勤めください。右の土地に関して、地訳人は勿論、他人から支障を言い出すようなことはございません。後日のための差上げる流地証文は以上の通りです。
(奥異筆・加筆)
「右は親類のことゆえ、何年経過しても代金を返済した時は土地を御返しください」
典型的な質流れ証文です。代金10両を返済できなかった三郎兵衛さんが、質入れした畑2筆を、源左衛門さんに、流して、借金を相殺した、なお、流れた土地をり流地(りゅうち)といいます。
一見すると、なんてことのない、典型的な質流れ証文なのですが、ただ、この文書、曲者。なかなか含蓄ある文書なのです。
1.まず、「地訳(じわけ」文言。これは関東や中部特有の文言が登場するのもで
す。地訳(じわけ)とは地類(じるい)とも。関東・中部地方において、一つの土
地を話分け合ったという伝承をもつ親類に準じた関係をもつ家々のことで、上文書
でいえば、「地訳 新左衛門」さんがそれに当たります。この地訳関係をもつ者達
は、共同で神々を祀ったりしたくらい、土地を媒介とした連帯意識は強かったよう
でし、なにより、地訳人はその土地に一入の思い入れがあったはずです。ですの
で、質入人の三郎兵衛さんは、わざわざ「右之畑親類地訳不及申(右の畑、親類地
訳は申すに及ばず)」の文言を加えなければならなかったのでしょう。
しかし、これだけであれば、「ああ、武蔵国にある典型的な質流れ証文ね・・・」で終わってしまします。しかし、この文書の醍醐味が実は、奥に書かれた加筆部分にあります。よく見てください。「右は親類のことゆえ、何年経過しても代金を返済した時は土地を御返しください」とあります。
2.これをみると、本文の質流しはあくまで建前であることがわかります。つまり、
質入年期は実際にはないも同様で、お金、ある時次第・・・・、あくまでも土地
はあなたに預けているだけ・・・・ということになります。これは「有合質地証文
(ありあわせしっちしょうもん)」の慣行、つまりお金がある時に(これが「有
合」)するから、土地は他へ流さないでね・・・という慣行に近いものですね。
ここでは、「有合」の文言がありませんが、奥に加筆することで、実質的にその機
能を持つことになったといえるでしょう。なお、加筆文言の「親類之義故」をみる
と、質入れ主(地主)の三郎兵衛さんと、質取り主の源左衛門さんは親類同士とい
うことなのでしょうか。
質地証文なども土地取引文書は、名主も加印するなど公的機能をもった文書ですが、このように内々に奥書を加えるなどし、文書の機能をすり変えることもあった。これが、江戸時代の村社会で、実際行われていた慣行です。なぜ、このようなことを行わなければならなかったのか。
それは、江戸時代の人々の土地に対する思い入れ(土地観念)を理解しなければ、わからないでしょう。江戸時代には、土地を質入して流れてしまっても、元金を返済すれば取り戻せるという、という質地請戻慣行という制度根強く残っていました。したがって、各地で時には、質流れした土地の返還を求める騒動(質地騒動)が、時に見られるました。
現在から見れば、奇妙に映る慣行ですが、当時の人々の、土地観念や、現在とは異なる法への意識が存在したわけですし、その表現が上の文書、ということになるのでしょう。