何度か子供の目で見た豪雪地の様子を書きましたが、今ではとても想像できないくらいの大雪だったので、書き残しておきたいとおもいます。ダブる話題はご容赦。
<100mの飛び石路>
1951年から6年間、山形県の南西端、中津川村下屋地(今は西置賜郡飯豊町下屋地)に住んでいました。
村の幹線道路から直角に100mほど離れたところに借家がありました。天井は父が不揃いの板材を並べ置いただけの、とにかく隙間だらけの平屋でした。
例年、11月末には初雪、12月下旬から翌年の5月初旬まで約4ヶ月半、隣町への峠道が雪で不通になる。つまり完全に陸の孤島となるのでした。
月に1回、隣町から2台の馬そりが生活物資を運んできました。
カンジキを履いた大きな馬が、体からもうもうと湯気を立てて、大きく見開いた目で見下ろしながら、ブホーッ、ブホーッとあがく様は、子供には畏敬の念を抱かせる神聖な怪物でした。
村は東西方向の狭隘な山間に人家が点在していて、冬は飯豊山からの吹き下ろしがとにかく強烈でした。
村の幹線道路から家までの曲がりくねった田んぼ道が、根雪になると100mほどの直線になります。
真横に吹きすさぶ吹雪の日は、道はかき消され、常に平らになっています。数m間隔で突き刺した長い竿だけが頼りになるのでした。
両親は仕事が終わると三カ所に預けていた子供達を拾って、難関の100mに挑むわけです。
父が懐中電灯を持って先頭、子供3人、母と続きます。子供達は両手でマントを引き締め、バランスをとりながら必死で父の足跡をなぞるのですが、なぞり方が下手だと胸まで新雪に沈んでしまうのです。それを父が引っ張り上げるわけです。
今思うと、まるで冒険映画の「飛び石の道」のようでした。
ある日、猛吹雪の夕方、いつものように悪戦苦闘しながらようやく家にたどり着きました、はずですが、家が見えないのです。
こんもりと盛り上がった雪山の風下に小さな穴あって、そこに父が吸い込まれて見えなくなったのでした。
例年雪が降る前に、学校でも青年団による窓の「雪囲い」が始まり、年が開けるといよいよ家の屋根の雪下ろしが始まります。
雪で窓は埋まってしまうので、採光のために、窓のところは下ろした雪をさらに掘り下げなければならなかったのです。
朝起きるといつも家の中は真っ暗でした。
母は、大雪の程度を、玄関から地表へ(?)出るまでの雪の階段の数で言っていました。
「今年は9段も積もったなぁ!」
1段を 25センチとすると、地表の踏み固めた道まで2m以上ということになります。
そんな大雪の年は農家では2階から出入りしていました。