石橋・番外

石橋広場(いしばしひろば)

大分県日田市夜明

 

橋名:大肥橋(おおひはし)

大肥川に架かる石橋

橋長:27.60m

橋幅:4.60m

径間:20.70m

拱矢:4.80m

架設:1899年(明治32年)5月

石工:坂本 宇助 氏 他

型式:単眼アーチ橋  壁石:布積み

撤去:2021年(令和3年)3月

 

 

  日田市に来る楽しみは「筏場眼鏡橋」とこの「大肥橋」の石造アーチ橋(眼鏡橋)を見ることでした。石橋散策を始めた頃から毎年のように来ていました。大分県内で1番古かった筏場眼鏡橋が大洪水で完全に流失してしまい、コレは復元は無理だなぁ〜と現場で感じていました。輪石が残っていた時点で番号でも付けていればと思っていました。川底には石材がかなり傷みなく落下していたので・・・。まぁ日田市も毎年のように洪水被害が多いので、復元予算も付かなかったのでしょうが・・・。

 この大肥橋も大好きな石橋の一つでした。毎回、日田市に来ると訪れていましたが、こういった私に最高のプレゼントがあったのが、2017年9月30日(土曜日)です。福岡からの帰りいつものように寄ったのですが、夜明ダムが放水していて、大肥川の水量がかなり減っていたので川床へ下りれました。大肥橋の全容が見れた感動は今でも脳裏に鮮明に残っています。

 撤去後のことは何かモニュメントとして橋のふもとに造られるらしいと聞いていたので、撤去後も何回か訪れていました。

 昨年来れてなかったので、久々に来ましたが、なんと!「石橋広場」として整備されていました。寝かされて保存される大肥橋、コレもアリかな! な〜んて嬉しくニヤけてしまいました。

 

訪問日:2024年8月10日(土曜日)

 

石橋広場

 

大肥橋側道橋

 

 

石橋広場

 

石橋広場

 

石橋広場

 

 日田から福岡に行くには、大肥川を渡らなければならず、古来より人々は難儀していた。

 江戸時代末期、関村(夜明関町)の眼科医行徳元遂は、丈夫な石橋を架けることを企画し、八代(熊本県)から石工を招いて1849年、歌詠橋を完成させた。しかし、翌年の洪水で流失。筑後川沿いに新道を造るため、この場所に木造橋を架けたと言われている。

 その後、明治3年、石橋の車橋が架けられたが、明治22年の洪水で流失。10年後の明治32年5月、大肥橋(眼鏡橋)が完成した。石工は坂本宇助らとされている。拱矢(きょうし)比4.8という扁平な日本でも珍しい石橋であった。

 昭和28年の筑後川大洪水で、水没したが破損することなく復活した。その後、1975年、国道の拡張工事に伴い、新しい大肥橋が架けられ、眼鏡橋の役割を終えることとなったが、市民の熱望で歩道橋として存続することができた。

 平成29年7月、大肥川は未曾有の大洪水となり、河川沿岸の多くの住民が被災した。災害を繰り返さないために、検討に検討を重ね、人命最優先に考え、石橋を撤去した。

 明治、大正、昭和、平成、令和の5代に亘り、住民並びに通行者に貢献した大肥橋(眼鏡橋)に感謝し、希少なアーチの誇れる石橋であったことを偲び、後世にその姿を伝えていくため、一部をこの広場に移築することとした。

 

令和5年12月 夜明史談会

 

※漢数字の部分は算用数字に変換させていただきました。

 

大肥川と大肥橋

 

大肥川と大肥橋

【大肥川】

東峰村において鼓川(大肥川)と宝珠山川が合流し、大鶴地区において鶴河内川が合流して筑後川に注ぐ。全長約8.1キロメートル・流域面積約5.8平方キロメートルの一級河川。

 

大肥橋(眼鏡橋)

 

完成 1899年(明治32年)5月

   橋長:27.6m

   橋幅:4.6m

   アーチ径間:20.7m

   挾矢比(スパンライズ比)4.8

 

撤去 2021年(令和3年)3月

 

石橋広場

 

 

 

壁石の水抜き?

 

要石がモニュメントに使われていました。

 

 

在りし日の大肥橋

 

大肥橋

 

大肥橋

上記2枚の写真は2017年9月30日(土曜日)撮影

 

 岩盤にアーチが組まれていたと思っていたので、組まれた橋台を見た時は感動しました。

 

Map

 

石橋広場