0191   再訪

享保水路太鼓橋(きょうほすいろたいこばし)

宮崎県えびの市大字大河原宇土川

 

有島川に架かる石橋

橋長:34.0m

橋幅:9.60m(水路部分1.60m)

架橋:1870年(明治3年)

石工:不明

型式:単眼アーチ橋 壁石:布積み

指定:2004年(平成16年)3月4日 国登録有形文化財 指定

 

 国道221号の「えびの駐屯地入口」から陸上自衛隊えびの駐屯地方面に入り、「公佑会丹医院」先を左折して駐屯地手前を左折した場所に有ります。

 県内の石橋はご無沙汰になっていたので、今年に入って少しづつ時間を見つけて周っています。この享保水路太鼓橋も直近では、2014年4月以来の再訪になりました。

 さすがに9年ぶりとなると、石橋も照れくさいようで・・・草藪に完全に埋れて迎えてくれました。(笑)

 

訪問日:2023年5月20日(土曜日)

 

享保水路太鼓橋

 

農作業車道との兼用水路橋です。

 

 

 

享保水路太鼓橋

 

 潜り込む準備はして下りて来たのですが、水量もあるし藪っているしでここまででパスです。

 

=====案内看板=====

 

享保水路太鼓橋

国登録有形文化財

 

太鼓橋の歴史

 太鼓橋は、110×50×50cmの石を積み上げた用水路兼農道専用の橋で、この地に江戸末期(1850年ごろ)構築されたと言われています。

 それ以前は大雨のたび、有島川を横断する水路が流失していました。しかし、この橋を架けてからは、その心配もなく、現在でも飯野平野を潤す享保用水路の重要な一部を担っています。

えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

 

 

享保用水路の歴史

  太鼓橋は、享保水路の途中にある有島川を越えさせるための石橋で、橋の中央を幅1.6mの水路が通り、両側に幅西3.5m東4.5mの農道がついている。

 この橋ができる以前は、約200mほど上流を木桶で通水していたらしいが、もっと多量の通水を可能にするために、この橋が造られたという。

 二重積みアーチ型で、橋の壁石は、勾配をつけて積み上げられていて、しかも、勾配の途中で段差がつけられていて、珍しい型とされている。

 建造年月日は不明であるが、“忠義公資料”に“此溝筋ヲ今三四尺程モ相弘メ・・・本陣原堀続キ、中途太鼓橋一ケ所ヲ架シ、谷合ヲ越シ、溝ニ仕建(此橋凡長十四・五間位)候得バ・・・”とあり、一方、“西諸懸郡誌”によると、明治3年に鹿児島藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加え・・・とあり、市来正右衛門の建議後四年にして架橋が実現したとみるのが妥当である。

 大正八年の“飯野村村治要綱”の中で、クルソン山端山寺の古文書“開田恩賞の墨付”について、水路成功の恩賞たるを知るべし・・・とあり、さらに、明治三年薩藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加えたり、大河平太鼓橋の如き就中大工事なりき・・・・。と記されている。

製作者:えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

 

 

 

享保用水路の歴史

 

 本用水路は、川内川上流(旧飯野村大河平通称いいのフランス山上流約200m)に井堰を設け、飯野平野一帯の水田を潤す水路として、享保17年(1732年)に完成しました。

 伝説によれば、瑞山寺のある僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、私財を投じ、工事は実行にうつされたそうであります。総延長6,800m、幅21mの工事は、途中随道が5ヶ所もあり、当時は測量器具もなく、夜に提灯をあちこちに置いて土地の高低を測り、大変な苦労をして造ったといわれています。

 その後、災害を受けたり、古くなったため、昭和7~10年と昭和54年~60年にかけて、井堰と用水路の大改修が行なわれました。

 この水路の運ぶ水のおかげで、現在でも、「えびの」米で有名な米を中心にさまざまな作物が作られ、地域の発展に大きく役立っています。

(※概要は省略しました。)

製作者:えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

 

 

 

 

 上流側右岸は桜も植樹され、トイレ施設も整備されていたので広場だけは草刈りが施されていました。

 

 

 

 

享保水路太鼓橋

 

 来た時期が悪いと自分に言い聞かせて、冬場の再会に期待したいと思います。

 

2014年4月の享保水路太鼓橋

 

 

 

 

 

享保水路太鼓橋

 

Map

 

享保水路太鼓橋