0051 再訪
県指定有形文化財
東方大丸太鼓橋(ひがしかたおおまるたいこばし)
宮崎県小林市大字東方大丸
岩瀬川(浜之瀬川)に架かる水路橋
橋長:31.50m
橋幅:3.00m
橋高:14.00m
架設:1847年(弘化4年)
施主:森山 新蔵 氏(薩摩加治木の豪商)
石工:不明
型式:単眼アーチ橋 壁石:布積み
指定:2003年(平成15年)県指定有形文化財
2013年10月以来の再訪です。176年前に架けられた水路橋です。水路内はコンクリート補修されていますが、現役です。施工法が石工・岩永三五郎氏に類似しているので、弟子か手ほどきを受けた人達の手によるものかも知れません。
訪問日:2023年1月20日(金曜日)
東方大丸太鼓橋と山澄橋(1965年/昭和40年3月30日完成)
東方大丸太鼓橋
案内看板
県指定有形文化財
東方大丸(ひがしかたおおまる)太鼓橋
所在地:小林市大字東方大丸
指定:平成15年4月24日
東方大丸太鼓橋は、浜の瀬川にかかる石造りのアーチ橋で、大丸地区の新田開発にあたった薩摩加治木の豪商、森山新蔵が私財を投じて建設した、宮崎県内に現存する※1)石橋としては最古のものです。江戸時代の終わりの弘化4(1847)年に完成しました。
長さ約31.5m、幅約3m、高さ約14mのこの橋は、水路部分を切石積みで全体的には不整形石の乱積みで作られ、橋の横断面は上から下にかけて広がる台形状をなしています。こうした石積みの方法は同じ頃に鹿児島市の甲突川に架けられた5つの石橋(西田橋・新上橋など)にも見られ、当時のアーチ式石橋を研究する上で貴重な資料です。また、橋の北側にはこの橋に使われた石を取ったと思われる石切り場跡があり、壁面には「弘化二」と彫られた文字が今も残っていて、小林や南九州の開拓の歴史を知る上でも貴重な資料だと言えます。それまで木造の樋で水を引いていたため、この橋の開通によって、大丸新田の用水と交通の便は画期的に良くなりました。
その後森山は、大丸開田や鹿児島藩の財政再建に貢献した功績によって、武士に取り立てられ、西郷隆盛、大久保利通など幕末に活躍した多くの鹿児島藩士を資金面で助けました。しかし、彼は当時の藩主島津忠義(茂久)の実父、島津久光の命に背いて、西郷や村田新八とともに大坂(現在の大阪)に向ったことが問題になり、また、息子・新五左衛門が寺田屋騒動に関わって自害したことを知り、藩の処分が決まらないまま文久2(1862)年に自害しています。
平成15年9月20日
宮崎県教育委員会・小林市教育委員会
(※漢数字は算用数字に変換しています。)
(メモ:※1)石造水路橋としては最古ですが、県内最古の石橋は他に有ります。)
東方大丸太鼓橋
現役の水路橋です。水路部はコンクリート補修されています。
壁石は布積みですが、石材が丸みを帯びて来て一見、乱積みに見えます。
東方大丸太鼓橋
東方大丸太鼓橋 拱頂部
東方大丸太鼓橋
川床へ下りたのはいいんですが、太陽がちょうど逆光になる位置で、撮影が厳しかったので近々再撮影に出かけようと思っています。
石切り場
ここから切り出された石が大丸太鼓橋建造に用いられました。
岩壁には「弘化二」(1845年)の年号が刻まれています。
(斜め右上)
平成12年3月22日
小林市教育委員会
(※漢数字は算用数字に変換しています。)
風化が激しく、文字が読めなくなってきました。
「弘化二」と刻まれています。石材の切り出しは2年前に終わっていたようです。(前回2013年10月撮影)
Map
東方大丸太鼓橋