1882  再訪

水路橋(すいろきょう)

 熊本県八代市東陽町北

 

 水路に架かる石橋

 橋長:  -   m

 橋幅:  -   m

 径間:  -   m

 拱矢:  -   m

 架橋:明治期と推測

 石工:橋本 弥熊 氏(橋本 勘五郎 氏の次男)

 型式:単眼アーチ橋

 

 今までは川側からしか覗き込めませんでしたが、2018年(平成30年)の夏に精米・製粉所の建物が撤去され石組みが見えるようになりました。地元の方のお話で最初は全て撤去されたかと思いましたが、水路は残されたようです。精米・製粉所に氷川から取水した水で水車を回して、この暗渠が吐け口になっていたようです。

 今までは仮称で「精米・製粉所の暗渠」として紹介していましたが、今回「水路橋」の案内看板があったので、今後は水路橋で統一します。

 2018年12月以来の再訪です。

 

 折角東陽町に来たので、橋本家の事を・・・。(ここからは敬称略で)

 

 橋本勘五郎は、東京での※1)二重橋の工事が終わった時期の53歳の時に妻希以を亡くしました。御用の終了したタイミングで熊本にいつ帰ったかは不明ですが、臨終には間に合ったのでしょうか? 4人の子供がいたそうです。一番下は数え年六つにしかならず、直ぐに後妻に彼より15歳若いヤノを迎えています。ヤノは、棒術で知られた片山助七(後の岩宮五郎兵衛)の長女で、緒方家に嫁いでいましたが、不縁になり2人の娘さんも引き取っていたそうです。勘五郎は2人の娘も引き取り、姉ミトを先妻との間に生まれた長男七郎に、妹トヨを弟の弥熊に引き合わせたそうです。若い妻を得た勘五郎は、明八番、明十番、永山橋、下鶴橋、栗瀬橋、北河内橋、金内橋、御船橋、高井橋、岩本橋等々、眼鏡橋の架橋の仕事に精力的に励んだそうです。

 後日談として、姉ミトが産んだ二人の娘と、妹トヨが産んだ二人の息子もそれぞれに縁付いたそうです。眼鏡橋の名工も、こうした家庭づくりにも長けていたようです。

 

※1)二重橋 旧橋の二重橋は橋本勘五郎の架橋ですが、現在見ることが出来る二重橋は、1886年(明治19年)に久米民之助の設計によって架け替えられた眼鏡橋です。まだ健在だった丈八(橋本勘五郎)が架け替え工事にも参加していたのかも知れません。残念ながら資料が乏しく詳細は不明ですが、ただ、熊本に帰郷後の精力的な架橋工事を見れば参加は疑問視されます。

 

訪問日:2022年12月26日(月曜日)

 

水路橋

 

 

 

 

水路橋

 

 長さ・径間・拱矢・橋幅は未詳。氷川の水を引き込み、水の落差を利用して水車を回し精米や製粉をする水力利用の水路がアーチ状になっている。

(※案内看板から引用)

 

 

 

水路橋

 

Map

 

水路橋