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初八坂社車橋と仁王像
(そめやさかしゃくるまばし)
大分県国東市国東町原
水路に架かる石橋
橋長:2.20m
橋幅:3.00m
径間: - m
拱矢: - m
架橋:1807年(文化4年)2月
石工:吉武 金左エ門 氏
型式:単径間上部円弧桁橋 桁石3列に板石敷き 高欄
仁王像:1824年(文政7年)2月
石工:佐藤 茂助政近 氏
指定:1964年(昭和39年)11月30日 石造仁王像 市指定有形文化財に指定
秋葉社車橋での余韻がさめないうちに、ここ初八坂社でも感動です。まずは215年前の石橋、そしてその先の神門との間に仁王立ちした仁王像、潜り込んだ先には龍の彫り物が素晴らしい手水鉢と独り占めしていいんだろうか?暑さも、時の流れも忘れて酔いしれてしまいました。石橋散策していなかったら出会う事の無かった感動の数々に感謝です。
国東町では、アーチ石橋ではないが、単径間円弧桁橋に敷石を架けた上部円弧の参道橋を車橋と呼び、多く見受けられます。
訪問日:2022年8月7日(日曜日)
初八坂社
初八坂社車橋
記念碑
初八坂社車橋
仁王像の由来
この仁王像は、県内で一番大きく、石工は国東町浜崎の佐藤茂助政近の作で、文政7年(1824)この地に建立され、神仏習合の時代は多くの崇敬者から親しまれていました。
しかし、明治元年(1868)の神仏分離令によって廃仏毀釈運動が起こり、仁王像の一部が破壊され、明治4年頃に台石を残したまま仁王像のみが、西隣の元国東小学校山吹分教場入り口に移転されていたと考えられます。
この度、国東町給食センター建設に伴い、地元区民の強い願いと関係者のご理解で、元の台石に130年ぶり(平成14年4月27日)に無事遷座復元されました。
堂々とした風格が漂う一対の仁王像が、神社の神門前に立つ姿は珍しいと注目されています。
下の刻字は、淫禍 善福 とあり、淫らな行為や禍いを戒め、善くして福となし、外敵を押し退け心を清らかにして参拝する意味であります。
右側は阿形像 高さ240センチ
左側は吽形像 高さ255センチ
(※案内看板から引用)
仁王像 吽形像
高さ255センチ
仁王像 阿形像
高さ240センチ
初八坂社車橋と一の鳥居
境内からの初八坂社 神門
手水鉢
一枚岩を彫った手水鉢で、竜の彫り物が施されています。これもかなりの年代物と推測されます。
初八坂社 社殿
市指定有形文化財 昭和39年11月30日指定
石造仁王像
所在地 大分県国東市国東町原
所有者又は管理者 初八坂社
年代 文政7年(1824年)
初八坂社の鳥居を潜り石橋を渡った先に神門があります。この神門の両脇に立ちはだかるのが石造仁王像です。文政7年(1824年)に造られたものですが明治期に移転されており、平成14年に現在の位置に戻されました。
両像とも天衣※1)や髷(まげ)を欠損し、また阿形像が目や鼻、左手を破損しているのは、その時の影響と思われます。
作風としてはごく一般的なものですが、本像の最大の特徴はその大きさで頭頂部から足元までの高さは阿形像で2.4m、吽形像は2.55mとなり、石造仁王像としては大分県一の大きさになります。失われた天衣がどのような造形のものだったか詳細は不明ですが、天衣まで含めた総高はさらに大きなものだった可能性もあります。
※1 肩に掛ける薄く縦長い布で仁王像などの場合は風に靡(なび)くように頭上まで翻(ひるがえ)るような表現をされる場合があります。
阿形像
善福
桜木治郎大夫
浜崎
石工佐藤茂助政近
原村山吹荘屋
森茂助恒宅
川原村荘屋
増田顕助高義
山吹山之口
平野桂助
当村 施主 市蔵
文政7年申2月
吽形像
淫禍
夫力氏子中
赤松村荘屋
西田仁平惟治
小山田太右衛門安之
施主
赤松村
阿部十右衛門
同 たつ(づ)
同 さだ
平成26年9月
国東市教育委員会
(※案内看板から引用、漢数字は算用数字に変換させてもらいました。)