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境橋(さかいばし)

鹿児島県出水市境町 - 熊本県水俣市袋

 

境川に架かっている石橋

橋長:13.50m

橋幅:4.90m

径間:11.30m

拱矢:3.40m

架橋:1883年(明治16年)

石工:不明

型式:単眼アーチ橋 壁石:扇積み

 

 鹿児島県と熊本県の県境を流れる境川の旧市道(薩摩街道)に架かっています。橋周辺は道が狭いので、国道3号「弁当&サンド 境の茶」前の広い駐車場に車を止めて境川沿いに歩きます。肥薩おれんじ鉄道の「境川橋梁」の上流側に並行して架かっています。

 壁石は扇積みです。橋の管理は出水市、水俣市が行っています。

 

訪問日:2015年4月18日(土曜日)

 

境橋(手前)と境川橋梁

 

境橋(手前)と境川橋梁

 

境橋(手前)と境川橋梁

 

=====案内看板=====

 

史跡 境橋

 

 野間の関を通ってこの境川を越えると、肥後の国になります。

 薩摩藩主の参勤交代の主要道路でしたが、藩境であるため、防衛の必要から橋はありませんでした。

 この橋は、明治十六年(1883)肥後の石工によって建造されました。

 アーチ型一連の石橋です。

 鉄道や国道三号の開通までは肥薩交流の接点として、多くの人々が往来したことでしょう。

 今、静かに時の流れの中にあります。

出水市教育委員会 平成十七年二日

 

さかい橋

 

 肥薩国境の境川は小さな谷川であるが古来この川をめぐって幾多の抗争が繰り返され、藩政時代には藩の安全と秘密を守るために堅く閉ざした国境の川であるが、僅かにこの地のみが両国交流の地点であった。この橋は明治十六年(1883)に架けられた石造のアーチ橋で肥後石工の卓絶した技術を今に伝えている。

 頼山陽もこの川を渡り薩摩に入っており、次のような詩を作っている。「一潤平分南北州、乱沙深草両辺秋 曽無所属唯渓水 幾股随意流」又、高山彦九郎が寛政四年(1792)三月五日ここを越えるとき「ここ迄も送る心や玉鉾の道を守りの人をしそ思う」と歌っている。

 この時代までは橋は架かっておらず飛石伝いに川を渡っていたようで、明治十年(1877)西南戦争後に架けられている。

 なお、頼山陽は夕方おそくなり野間の関所を通ることが出来ずに、神之川に引き返し一夜を神之川の農家に泊まったと書き残している。

 又、この薩摩街道は島津藩の参勤交代の重要な道路でもあり、明治維新の英傑西郷隆盛、僧月照あるいは、幕府の巡見使等多くの人々がここを通過している。

昭和二十五年三月

水俣市教育委員会

 

境橋

 

 

境橋 親柱

 

境橋 親柱

 

薩摩街道

 

境橋

 

境橋

 

境橋

 

境橋

 

境橋

 

境橋

 

境橋

 

境橋

 

 

境橋

 

Map

 

境橋