違った世界で

普段いる世界から見えるものと、
違う場所から見えるものは、違う。


人は、その場その場で適応する力を持っているから、
その世界の常識を、そのまま受け入れることで、
生きやすいと感じられる。


その生きやすさを感じられなかったら、
去るか、主張するか、
我慢するかのいずれかになる。


でも、本来は、
ひとりひとりの意見があるはずで。

もちろん、集団に合わせることを、
和を以って尊し。

という文化も素晴らしい。


じゃあ、生まれながらに好きなもの、
合わせることができないほど、
個性に直結しているものが、


一番最初の世界である、
家族に受け入れられなかったとしたら。


それは、しんどい。
親を信じたい心と、
自分を信じたい心。


場を察知する子供だったわたしは、
親を信じた。


親を信じて、自分を封じた。
その経験が、生きるための術と記憶されて、
人前に出る時も、つい癖として出てくる。


だから親を責めるわけではない。

きっと、褒められたり、自由を尊重されても、
親が求めるであろう正解を求めて、
わたしはわたしを封じてしただろうから。


大人になって、
だいぶ時が経った今。


もっとあなたの世界を出してほしいという声と、
今更世界を出したところで、もう遅い。

という声が聞こえる。


天秤のように、
あちらの世界のわたしと、
こちらの世界のわたし。

唯我独尊のわたしと、
和を以って尊しのわたし。


揺れに揺れながら、
今を生きている。