下記の書かれている通りに、阪急電鉄創始者の小林一三翁の末裔で有る、小林家の影響力の無くなって行ったのと、タカラヅカの堕落と凋落は、顕著に我々の目には、見え始めました。阪急電鉄は、過去にはプロ野球球団の阪急ブレーブスを、あっさり手放した様に、宝塚歌劇団を”もう儲けの対象と見なくなった時点で”、近鉄がOSKを手放した様に、宝塚歌劇団を何処かの企業へ、売り飛ばしてしまう様な、気がしています。

 

『電車のおじさん』ーー11月22日の朝日新聞の記事で、この言葉を見つけた時は、“やっぱり”と思った。

宝塚歌劇団を運営する阪急電鉄の社員が、宝塚歌劇団に出向して組付のプロデューサーになるのだが、そのプロデューサーについて、一部の生徒(宝塚歌劇団は劇団員のことを“生徒”と呼ぶ)は、“外から来たよそ者”としてこう呼ぶのだという。

今回の宝塚歌劇を巡る一連の問題が連日メディアで大きく報じられる中で、今回の背景事情を考える上でのキーワードの一つは、阪急電鉄から来た『プロデューサー』だと思う。

今年9月、宝塚歌劇団宙組の研7(研究科7年生。2年間の音楽学校を卒業して歌劇団入団7年目)の25歳の生徒が、自宅マンションの敷地内で死亡しているのが見つかった。警察は状況から、自ら命を絶ったと見ている。

現役の生徒が亡くなったことは、残念でならない。ファンとして長年舞台を応援してきた筆者としては、歌劇団は徹底的に原因を究明して、二度とこの様なことが起こらない様に再発防止策を作るべきだと強く思う。現状では歌劇団側の対応は残念ながら不十分だと言わざるを得ないからだ。

「愛情を注ぐ対象」から「お金儲けの対象」へ

宝塚歌劇を作ったのは、阪急電鉄や阪急百貨店の創業者でもある小林一三だ。『清く、正しく、美しく』という宝塚歌劇のモットーを掲げて、舞台人かつ立派な家庭人を養成することを目指した。

その息子や孫たちと続く小林家の人達は、阪急電鉄のみならず宝塚歌劇の運営にも愛情を持って深く関わって来た。

1913年に宝塚唱歌隊として結成された宝塚歌劇団は、同年12月に宝塚歌劇養成会に改称され宝塚新温泉で初演を果たした。写真は1914年当時に演じた、歌劇『ドンブラコ』(写真:パブリックドメイン)

その小林家が宝塚歌劇団や宝塚音楽学校の要職から離れ、阪急電鉄の社員が歌劇団でも音楽学校でも要職を占める様になってきてから、歌劇団内部の雰囲気が微妙に変わっていったように感じる。簡単に言うと、宝塚歌劇団は、「愛情を注ぐ対象」から、「お金儲けのビジネスの対象」に変化したように思えてならないのだ。

 

タカラヅカの公演の在るならば、何でも観たいと言う皆様、せいぜい今の内だと思いますよ。

本当に、冗談抜きに今の内に観ておかないと、”タカラヅカ”と言う名称は残っていても、その時には以て非成る、今のOSKと同様な、全く違った印象の、タカラヅカ歌劇団しか残らなくなる事と、断言致します!!。