中学で初めて彼女ができました。彼女との予備校へ一緒に行ってました。楽しかったです。高校も当たり前に通ってましたが、ひとつの転換点かもしれません。

オレ、イジメに遭ってたんです。

ただ、並じゃなかったんでしょうね。腕っぷしがよかったもんですから、そうそうへこたれるもんじゃなかったんです。靴に画びょうが入ってた時も見つけたらただじゃおかねぇ。思ってました。

気が強い・・・確かに強かったです。半端じゃなく。

ま、彼女も同じ高校 てかオレが同じ学校にしたんですけど別れました。部活もバスケ、入ってましたけど途中で辞めました。

成績はアっというまに落ちていきました。高3の頃はそりゃもう、中学でオール5まで現国が4だった頃なんてホント? 自分で思うほど呆れました。で、大学受験は当然、受かるわけがない! 第一志望は医学部だったんですから。

東大理三てどんだけ頭まわるんでしょうね?

浪人生活は当然予備校に行ったんですが、何故か埼玉の川越。そこにあったんです。寮で暮らしてました。あの頃は楽しかったですよ。




18歳、ともなればいろいろ出来ることが増えてきます。あれやこれや。勿論、オレも例外には値しません。

浪人中は予備校の寮で暮らしていました。ひとり暮らしを始めました。その頃からです。自分のことオレ、と言い出したのは。青森市は津軽弁が当たり前。けれども自分のことを伝えるには津軽弁では不十分、どころか分かってもらえなかったでしょう。自分で工夫して変える必要があれば変えていきます。変えました。

勉強をした、といえばこの時が一番勉強した、でしょう。これからは分かりませんけど。理解力はあったのかなかったのか? なかった、と思います。自然に身につくものとそうでないものがある。やって理解できるものならばできるのでしょうが、どうも人それぞれ違うらしいです。出来なかったのは物理。一方で英語、数学はまあまあ。結局まだまだ自分のことで精いっぱいだったオレは、あとあと客観的に物事を見る手段を覚えていきます。でも、あの頃、受験戦争。教育の在り方は間違っていたといわざるを得ません。いい大学受かって、いいトコ就職して、いい女と結婚し、公私ともに充実した生活を送らせるよう、仕向けられていた、というのが現実ですかね。

負ける人生は、まだ、オレにとって未知の世界でしかありませんでしたよ。

戦争体験者、と、戦後団塊の世代、と、その子供世代。平成生まれ。違いは歴然としています。日本では。

2年、浪人してやっと受かったのは歯学部でした。そこしか受からなかった。浪人生活はとても楽しいものでしたが、闇に向かっていっている、とはまだ、気づいていませんでした。




浪人中は楽しかったです、みんな仲良かったんで。今の時代子供たちは知らなかったと思いますね、大学入学=使命

オレ自身気付くのが遅すぎたと思います。まったく別の生き方があるってことに。

小さい頃から恵まれた環境だったオレは会社員になることを全く考えませんでした。営業なんてムリ! 騙し、騙され、お金があればなんでも手に入ると考えてた方も多いでしょう。一方では借金苦に悩む方が大勢いる、両極端。オレはその両方を実体験してきました。それを記していきます。

大学 私立 医大 その意味は、やたら金持ち
事実、そうなのです。

大学入学が決まってもなにひとつ達成感はありませんでした。予備校仲間は喜んでくれてましたけど。みんな元気かな…

燃え尽き症候群

なりたい職業がひとつしかなかったオレはやる気がなくなりました。てか、覚えれなくなったんです、なにも。彼女も作る気がない、けどエロい。野球部に入部してめちゃめちゃ練習はしても一向に先が全然見えてこない。何かを、忘れてしまっていました。一度先輩に「精神科を受診してみろ」言われました。自分の限界はとっくに越していたのです。理解できるものが。成功から敗北へ。22,3の若造は引きこもっていきました。やりたいことが、ない。今後の人生設計など考えられない。職業選択の自由はあれど、なにになりたくて大学に入学したのか分からなくなりました。

オレの至上命題は果たしてしまっていたのです、大学合格の時に。それがオレの全てであって、それ以降の課題はなかった。で、辞めてしまった、生きていくことを。飯は食える、住むとこはある、で、お金は親が出してくれていた、あとは、いい。もう、いい。燃え尽きた自分がいました。

教育の基本は結局のところ生き方の選択を教えることではないでしょうか。


まだまだ、続きます。



たからん



2010年8月17日


私、オレ、たからん。生まれたのは青森県立病院だそうです。朝早かったそうです。既に陣痛があり、母は私の頭を出したまま分娩室に入ったそうです。あやふやではありますが私の記憶違いならば許してください。


1971年 昭和46年8月21日。生まれてすぐに保育器に容れられたそうです。

両親の話では、もう助かりません、覚悟しておいてください。と言われたそうですが、現在、生きています。

何故なのかは、今度聞いておきますがとにかく九死に一生を得た私は特別病弱だったわけでもなかったらしいですが、赤ん坊の私が、ある日高熱を出して、父がおんぶして病院に駆け込んだこともあるそうです。



約1年後、妹が生まれますが残念ながら妹ができた感覚はありません。私の記憶に妹が登場するのは2才か3才、当時の家と隣の家の子と仲良く遊んでいるところから、です。後ろをついて回る可愛い存在でした。

高三のとき受験のため仙台で合宿するとひとり、電車に乗ったとき、妹は泣いていました。

大抵のことは妹が善き理解者でありました。幼稚園、小学校。やんちゃだった私はガキ大将でした。

ピアノを習っていました。幼稚園のときから。

よく喧嘩もしていました。覚えています。

教室に猫が迷い込んだ日、家に連れて帰り、みんな来ーい。観に来ーい。そんな日もありました。

同級生にからかって泣かせたこともしょっちゅうでした。

特別秀でて良かったものはなかったように思います。元気そのものでした。

勉強はしろしろと言われていました。きつかったです。

幼少時代




2010年8月18日


まだ、小さい頃の記憶を綴っていきます。思い出した順番になりますので、なるべく古い順にするよう心がけますが、そのままにいたします。

幼稚園 お泊り お風呂に入ったときのこと 幼稚園の先生に あれ? もうむけれるねぇ? と言われたのを思い出したのは思春期以降。触られた時にビクッとして あっゴメン、と言われたのを覚えています。

両親はキリスト教徒ではありません。割礼されたわけではないでしょうが、判りません。

小学5年 わんぱくなのは変わっていませんが同級生が体調を崩し教室で吐いたとき ティッシュを渡されて嘔吐物におそるおそる近づけたとき担任に 怒鳴られました。

意味は分かります。勿論、担任に感謝しています。

同じ小5 夏休みは宿題はあっという間に片付けたような気がします。ラジオ体操にも毎日いってました。クーラーはなかったですが特に必要ではなかったです。

テレビ 必ず観ていたのは8時だよ、全員集合。ドラえもん。それしかみせてくれなかったです。妹と8時になる前に居間に行き待機 それまでに風呂を済ませ、観終わったら就寝。

思えば家ではくつろぐというより窮屈に思えていたのかもしれません。



夏休み後 二学期 ある日突然でした。幻聴が聞こえてきたのです。本当に不思議な出来事でした。何か悪口らしきものが聞こえていました。で、1週間後、閃いた私は、お前はオレだ と思ったのです。そうしたら、なくなりました。



初恋は同級生。いいなぁ ちらちら眺めていました。活発でしたね。同級生集めて野球だサッカーだと遊びまくっていました。学校が楽しくて仕方ありませんでした。卓球部に入部。夜遅くまで練習。ある日、顧問とラリーをして言われたことも覚えています。やっと打てたか! 気づけばそうですがスマッシュが打てない。相手を攻撃するより自分がどう返すのか、考えていたのかもしれません。初恋の相手も同じクラブでしたが、小6で私は辞めました。

時期的に重なるのは英会話、そろばん、習字は少々。やっていました。

あと、小6でツアーでアメリカ ディズニーランド、カナダ バンクーバー行きました。印象に残っているのはバンクーバー大学寮での生活。やたらでかい運動場でのサッカー。そしてヴィクトリア公園のすっげ綺麗な自然風景。

まだ、中学に入るには早いかも…
思い出すことはつきませんね

たからん




2010年8月20日


さて、活動再開しますよ

中学 当時はまだ木造校舎でぼろっちかったですね。今は鉄筋4階建てですが。

中学に入学してすぐに部活動、バスケ部に入部。練習はとにかくハード。腕立て100回、腹筋、背筋100回、基本最初は筋トレの毎日。途中脱落していく仲間は数知れず。家に戻ればとにかくメシ。どんなに食べようが筋力は増す一方。その一方で勉強の成績は、トップクラス。簡単だ、と思っていました。いわゆる不良、ではなかったですが、誰彼問わず皆仲良かったですね。楽しかった! としか思えないです。



中1には反抗期。父親のあまりの情けなさにただ呆れて、なんだ お前その程度か。ただの弱者イジメ てか父親の威厳とか以前 自分が傷つくのが嫌なだけ。逃げてった父に対してのイメージは余りに無残に散っていきました。

似たような教師がいましたね。やたら、威厳を振りかざす、それがお前の為だ。勘違い人間。自分の弱さを自分より弱い、生徒にあたって私は一生懸命やってます。その学級の人たち、みんなで可哀想だな 噂していました。


あの時代、受験戦争真っ只中 

まさに勝つ為に手段は選ばず。

幸い勉強で悩んではいませんでした。何故か、できたのです。トップ30には入っていました。

スポーツも万能で球技は思いのまま バットを振ればソフトボールは校舎脇のすれすれを飛んでホームラン。走れば100m 12秒台 ジャンプすればもうあとちょっとでダンク。みんなに慕われていました。男女問わず仲良かったです。

此処までは自慢させて頂きましたが、楽しい思いで暮らしていた日々が「挫折」から一気に「精神分裂病」を発症し両親の裏切り 過酷な入院生活を余儀なくされていきます。そこまで記すのに何日掛かるんでしょうか? 分かりません

今日は此処まで

たからん