身辺雑記 ~いくつかの仕事に集中する 2025,11,13
一昨日と昨日、教育に関わるいくつかの仕事に集中した。
第1は、若い友人・國貞さんから送られてきた『教室記録』を読み、深く心を動かされ、感想を記して送ったこと。
この文章は、國貞さんの『実践記録』と言っていいだろう。一人の少年、2年生のT君について、その生きる姿を実に丁寧に記録し、特徴をつかみ、彼をどうとらえたらいいのか、どのような関わり方が次へのステップを刻むか、悩み苦闘しながらかすかな希望を見出し、彼と共に明日への一歩を踏み出している実践だと言っていい。
T君の日々を生きる姿は、読んでいるだけで切なく痛々しく、ある意味“手に負えないような”姿を見せる。ナイーブと言っていいのか、幼い心がこれほど爆発しなくては今を生きられないのか、T君は必至で“降りかかるもの”を拒絶し振り払い、生きようとしている。
この行為を國貞さんは、驚き戸惑いながら、時にはたしなめ、否定し、“もっと違った表現や生き方”はないかと彼に語りかけ提示していく。
しかし決して、T君の“存在や尊厳”を否定しない。記録された事実の端々に、T君との対話のひとつひとつに國貞さんの苦悩とT君を包み込むような“愛”が込められていて、その姿に圧倒される。
そして、ぼくが最も教えられたのは、T君のある意味“幼く震えるような自己”が―ふつうこんなことで傷つくのかと思われるくらい激しい拒絶と周囲への暴言、攻撃的な姿を見せる―國貞さんとの生きる日々を通じて、小さな小さな進歩―人間としての器を広げている―を刻んでいるということだ。
それは、学校の大きな流れの中では見つけにくい、周りの子どもたちの成長・発達の姿からみたら微々たるもののように見えて、T君は何も変わっていないように見える…。しかし、確実に次へのステップを刻んでいるのだ。この変化に注目したい。
T君は、國貞さんを敵対する人間として見るのではなく、自己とつながる心が溶け出すような人として、彼の存在の枠組みのなかに許容しはじめているのだ。
子どもたちは、その子、その子に相応しい“誇りとつながる自己”があって、それは“人格の芯”のようなものと言えるかもしれないが、その持つ器の大きさや内なる力には違いがある。このことに気づきながらその子に相応しい手立てがこうじられ、彼や彼女がそれを自分ごととして引き受けたとき成長への歩みが始まるような気がする。
こんな風に書いていると、つい長くなってしまう。國貞さんの実践報告が、また学びをつくる会や教科研の大会や分科会などで発表されることを期待したい。
第2は、雑誌『教育』2月号掲載の『毎日がチャレンジ』の原稿をお願いした福島県のYさんから原稿が送られてきて、それを読み、感動し、お礼の言葉を述べながら、行数と表記などで若干の修正等をお願いし連絡を入れたこと。
教室の後ろに大きな教師用机と思われるものを2つ並べ『子どもたちの作業台』として開放すると、子どもたちが次々に楽しい活動を始めたという物語だ。休み時間に子ども同士のつながりが生まれる。こんなアイデアを持ち楽しんでいるのか、そこには子ども世界が立ち上がってくる。いいなあと思って読んだ。2月号の『毎日がチャレンジ』楽しみにしてくださいね。
第3は、同じく雑誌『教育』2月号掲載予定で、ぼくの順番になった『教育の言葉』を選び出し、それにぼくなりのコメントをつけて担当者の中村清二さんに送ったこと。貴重な場を与えてもらっていて感謝しつつ、きちんと要望に応えているか心配になるけれど…。
このまえブログに記したけれど、大学生のNさんなどが、「このコーナーが好き。よく読みます」と言ってくれたから「ああ、このページに目をとめてくれている人がいるんだな」と嬉しい思いをしたことを思い出しながら。
第4は、同じく教育2026年5月号の特集Ⅱの編集担当で、「頭出し」の文案を、一緒に編集をになってくれている友人たちと編集長の南出吉祥さんや原稿を集める重要な役割を担っている佐藤高樹さんに送ったこと。
編集会議は14日の夜だと思う。協議していただきよい方向に決まるといいなと思う。