7月学びをつくる会 島﨑さんのお話を聴いて     2024,7,29

 今日のブログは、『学びをつくる会』7月例会で報告された島﨑さんのお話を聴いて、ぼくが学んだことや思ったことなどを記しておきたい。若い養護教諭Mさんのお話については昨日のブログに掲載している。興味のある方は読んで下さるとうれしい。

 

 島﨑さんの報告のテーマは以下のようなものだ。

先生、今日は一緒に勉強しないの?

~外国にルーツのある子ども達に寄り添った1年間の報告~

①    島﨑さんの話を聴いてぼくが何よりも強く思ったこと

 それは、外国にルーツのある子ども達(特に日本語がほとんど理解できない子たち)が、日本の小学校に籍を置き、何のケアもなく(それなりのケアはなされるのだろうが)学校での時間を過ごしていることの“残酷さ”についてだ。

 1日の学校生活を振り返っただけでも、彼らの見えない苦痛や困り感、そこから生まれる大きなストレスや苛立ちが想像される。

 朝、学校にやってくる。教室の友だちと何の不安もなく朝の挨拶をかわせるだろうか。担任の先生がやってくる。朝の挨拶はみんなと一緒にできても、担任の先生の話の意味はわかるだろうか。

 1時間目が始まる。教科書を開いて日本語が読めるかしら。友だちの言葉を理解できるだろうか。2時間目が始まる。グループ活動などでも、“見様見真似”でやるしかないが、学習のし方や意味を友だちに聞きたいけれど、どんな風に語りかけたらいいか分からない。そして、ノートに文字を書くのも難しい。

 休み時間になる。一緒に遊びたい。笑顔で気持ちよく呼びかけてくれる友だちがいたら心が和むだろうけれど、子どもらしい関係性が結べていないと、ここでもやっぱりストレスがたまる。

 改めて、日本語をほとんどしゃべれなくて理解できない子どもたちにとって、日本の学校で過ごす時間は、その子にとって“自分を殺して耐えるしかなく、空白の時間”に時間になってしまうだろう。

 その子がその子の持つ“かけがえのない時間”を、何者かによって奪われている状態といっていい。『子どもの権利』から、このことは許されない。

 島﨑さんの役割は、学校において困り感や大きなストレスを感じる子どもたちに―子どもの時間を生きられない子どもたちに―、この学校で生きること・学ぶことへの喜びを生み出す手助けをすることになる。

 島﨑さんの報告は、外国にルーツのある子どもたちとの、週に何回かの取り出し授業のような場での短い時間の関りではあるが、この子たち同士をつなげ、笑顔をひき出し、日本の学校で周りの子どもたちと関係を築きながら生きることの喜びを生み出すきっかけを作って行った、とても大切な話だと思った。

 

②    話された具体的事例のいくつから

ア、 子どもたちの語る、一見“乱暴とも思われる言葉”に込められてメッセージを読み取る

 ・授業が終わって「片づけをしてね」と言った時、小さな女の子が島﨑さんに向かって言った。

 「お前やれ!」⇒ムッとする言葉だけれど、島﨑さんは問い返す。「いっしょにやってほしいのかな」

 頷く彼女。「そんな時はね、『先生、一緒にやってください』って言えばいいんだよ。言ってみる?」

 ・2年生の男の子・A君。何かの事情で「国際学級」の時間がなくなったとき担任に向かって言った。

 「何で国際やんないんだよ~」⇒「国際学級」の時間を楽しみにしていた。その子の心からの願いだ

ったけれど、うまく言葉にできなかった。

イ、 その子の抱える隠された思いを聴き取る

 ・5年生の男の子・B君は、中国からやってきた。漢字などお手の物だ。賢い子でもある。しかし、

授業中や休み時間になると大声で「お腹が空いた!」と叫ぶ。授業でわからない場面にくると「わか

んない!」とやはり大声で叫ぶ。

 島﨑さんは、ふと思い立ち机の上にあったアザラシの人形を手渡して、「これで心落ち着けてね」と

語りかけると彼は気に入った。何かあるたびにアザラシにさわったり絵を描いたり。

そして彼は言った。

「だって、小さい時、こんなことして遊んだことないもの」

 B君のこの言葉の意味は大きい。幼い頃からの彼の育ちについて、見つめ直すことができる。そし

て、この言葉を、彼の成長にとって大切な意味を持つ言葉として聴き留めた島﨑さんの教師としての

感性が素敵だ。

ウ、 国際学級における子どもたち同士の関係性を築く

 ・国際学級にきても、互いに名前は知らない、関心はもたない…状態を見て島﨑さんは、それをよい

関係とはみない。もっと子ども同士をつながり合う関係にしたいと願う。

 それが、『国際学級』で行われる『集会』となった。このアイデアは勿論、島﨑さんの提案。1回目

の自己紹介と遊びで、子どもたちが少しつながり合う。新しい友だちがやってくるとき2回目の集会

を開く。すると驚くことがおきた。

 島﨑さんが教室に行ってみると、先に集まってきた子たちが今まで見たこともないようなテンショ

ンで、歓声をあげながら集会を待っていたという。「彼らの子どもらしい本音がでていた」ことを島﨑

さんはうれしいと思う。

エ、 島﨑さんが国際学級で大切にしていた流れ

 1)トークタイム…土日にあったことを順にお喋り。それを聴き合う。友だちを知り、自分を語り、そこで受け止められる心地

  よさを味わいながら、日本語の語彙を増やしていく活動。

 2)それぞれの学習の確認…その日、何をその時間に学ぶか1人1人の課題にあわせて

 3)苦手に挑戦タイム …漢字、算数、日本語…。これもそれぞれの子の課題にあわせて

オ、 子ども観・指導観の違いに対する悩み

 ・「国際学級で集会活動をしています」と話した時、教委のある方から言われた。「そうしたことは休み時間にやればいい」

  丁寧な説明が必要だとは思うが、島﨑さんがなぜ「集会活動」を「国際学級」で取り入れたか、重視したかを本来その方は聴

 くべきだったと思う。

  外国にルーツを持つ子どもたちが、いまどういう育ちをしているか、どんな願いをもっているか、そこに深く人間的に関わろ

 うとする教師の取り組みに対し敬意をもって聴き取る姿勢が必要だったと思う。

 ・ある若い教師から言われた言葉に心を痛める。

「トークタイムなんかしているより、文章の構成を教えてください!」

 これも、即自的な効果を狙った“薄っぺらい教育観”から生まれた言葉だ。若い教師を責められないが、どのようにして子どもた

 ちが学びに向かっていくか、どういうときに子どもが伸びて行くか、力を身につけて行くか…について、まだ十分には理解して

 いないのだろうと思う。子どもに本気で向かい合い、その子の瞳の輝く瞬間と学びの成長を発見したとき、初めて教育の意味

 をつかむのだろうけれど…ね。

  しかし、今学校は、目に見える学力をいかに効率よく育てられるかにのみ着目している観がある。

                    ※

③ 島﨑さんは今回の実践への挑戦をこんな言葉でまとめたが、これ、いいね!

 「ぼくは、あのスイミーのように、“うんと考えて、いろいろ考えて”この『国際学級』の授業を工夫

してきました」

 

                    ※

 以上、昨日と今日のブログをつかって『学びをつくる会』7月例会で報告された2人の教師から学んだことや思ったことの感想を記した。

 参加者一人一人は、増田さんからもらった感想用紙にいろんな思いを書かれていると思う。そちらも、どこかで機会があったら読めるのではないかしらと思っている。

 改めて報告してくれた、Mさんと島﨑さんに拍手だね。

 ぼくの感想に思い違いや間違いがあるかもしれないから、その点はご容赦ください。