黙掃の時間、こっそりお喋り…秘密の共有だね   2024,7,6

 少し前の夜のことだけれど、ちょっと用事があって若い仲間の教師・洋子さん(仮名)とお喋りしていたらこんな楽しい話を聴いた。

 今日のブログは、それを紹介したい。

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 洋子さんの勤務する学校では、『黙動清掃』が学校の決まりとして課されているという。掃除の時間を“自己を問い心と向き合う時間と場”ととらえ、教室や廊下、棚などをきれいにするだけでなく、その活動を通して“内面的(道徳的)”に成長させたいという“ねらい”が込められているようだ。(所謂、『学校スタンダード』の一種とも捉えられるかな…)

 

 洋子さんのお話に登場する子は、6年生の男の子・結希君(仮名)。

 洋子さんが校舎内の様々な掃除場所をまわっていたら、子どもたちを注意する同僚の先生の声が聞こえてきた。

「みなさん、お喋りしないで静かに掃除をしなさい。これは決まりです。掃除中は、誰かとお喋りするのではなく、自分の心と向き合う時間です!」

 洋子さんは、担任するクラスの子どもではないが、結希君の近くに行って一緒に掃除を始めた。

 すると結希君は、隣で働く洋子さんを見て真剣に掃除を始めたんだけれど、小さな声で内緒話のようにこんなことを言ったという。

 

 ここからは秘密の話。

「先生、何でだかわからないけど、掃除の時間、コソッとお喋りしたくなっちゃうんだよね」

 そして彼は言った。

「オレ…、最近、学校が楽しいんだよね」

 思わず洋子さんは耳をそばだてる。

「今年の先生たち、好きな先生が多いんだよ。授業が楽しいんだよ!」

 と。

 洋子さんは、この言葉を聴いた瞬間、クスクスッと笑う。そして、この小さなエピソードが忘れられなくて、学校での嬉しい出来事としてぼくに語ってくれた。

 

洋子さんは、結希君とのこの“秘密の会話”がとても嬉しくて、とても楽しくて、幸せに感じたんだろうなと思った。何よりも、結希君にとって洋子さんが『大好きな先生』の“ひとり”として捉えられていたんだものね。

 ぼくは言った。

「何て素敵な言葉なんだ! 結希君の言葉には、子どもの真っすぐな心が込められている。『好きな先生が多いんだ。だから授業が楽しい!』って。それは、“教育の真実”を伝える言葉でもあると思うな」

 『黙働掃除』などよりも遥かに大切なことが、結希君と教師・洋子さんとの間に生まれている!

 まさに、こういうことが生まれるのが“本物の学校”だと言えるのではないか。

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 『黙働掃除』について改めて考えると、これを“よし”とする人たちにとっては、“教育的価値”や“教育的意義”をそこに見出しているのだろうけれど、子どもの成長や発達からみてそれは正しい“指導”と言えるのだろうかと問いたい。

 結希君のように、子どもはどんなに自己を制御しコントロールしようと思っても、そこにどうしても言いたいことがあったり、気づいたり考えたりすることがあれば、思わず呟いてしまうだろう。そして、そこに大すきな先生や友だち・仲間がいれば、心の中にそれを仕舞ってはおけず思わず語りかけたりしたくなるだろう。これは、子どもの持つ、人間の持つ本性だ。

 子どもの持つ“本性(人間的自然)”に“敬意”を払わず、教師側がそれを無視して“ある種の型を強いる”こと、それは許されないことのように思う。

 まして今は、子どもの“人格形成”に深く関わる“他者との関係性”がとても希薄になっていて、人と人とがつながり合えない時代だ。多様な他者や異質な他者と出会う場が極めて少ない。“自己”を問うことも重要だが、その“自己”は、こうした他者との関係性の中で、ゆっくりと少しずつ形成されていくことを忘れてはならない。“観念的な自己”のみの形成を焦ってはならないのだ。

 子どもの自然体、堪えても堪えても、ついうっかりお喋りしてしまう姿の中に、どうしても言いたくて秘密の会話をしてしまう姿の中に、“未来に弾けるような子どもの可能性”を見るべきなのだ。

 勿論、遊びの時間も重要だ。みんなで楽しく食べる給食の時間も大切だ。しかし、そればかりではなくて、一緒に働く時間の中にだって、ふだん味わえない友だちの日常生活や未知なる部分などが表れた楽しい会話が交わされる。それは子どもが今を生きる上でとても自然なことで、楽しいことだろうなあと思う。しゃべり過ぎたり、働く手が止まってしまったりしたら、ちょっと注意すればそれですむこと。

 学校の楽しさの一つは、掃除の時間中のたわいもない話などを含めて、こうしたすき間の時間(例えば掃除だったら、机を運んだり水飲み場で雑巾を洗ったりするときなどの…)に交わされる秘密の話などにもあるだろう。

 こういうところをすべて奪ってしまったら、子どもたちが本来持っている“子どもらしい豊かさ”や“大人や教師には見えない影の部分”について、そういうものは持ってはいけないと“形ばかりの道徳”を押し付ける学校になってしまう危険性があるだろう。

 洋子さんとの話から、こんなことを思った。