6月Mカフェ みんなの語り②        2024,6,24ブログ

 今日のブログは『6月のMカフェ』後半の話―。教室や子ども、授業に関わって語られたこと。

参加者1人1人の話す内容に心が動かされる。本当は、一つひとつ立ち止まってみんなで意見を交わし合いたいが、全員の語りも保障したい。それで1人が、凡そ語り終えたところで次の人に話してもらうようにした。申し訳ない。本来はたっぷりと時間をとって自由に語り合いたいし、それが教育カフェなんだろうけれど…。

 

[2]5・6月の教室の物語 ~子どものこと・授業のこと・他~

瑠夏さんの話  “やさしい先生”“怖い先生”という見方を変える

 ⇒山﨑より…瑠夏さんには、先ほどの話を聴いて語ってもらいたいことがある。3年生を担任しているときクラスが大変で「元気をなくしていた」って言ってたよね。でも、持ち上がりのクラスで今4年生を担任し、「毎日、この教室で過ごすことが楽しい…。子どもたちの姿を見ていると気持ちがおだやかになる…」って話してくれた。同じ教室・同じメンバーの子どもたちだ。

 このクラスの変化は、どこから生まれたのだろう? 今、改めて振り返るとき、その転機となった出来事や瞬間は何だったのか。そのことについて話してほしい。

瑠夏さん: 私は“子どもに寄り添う”教師を理想としてきた。何でも自由でいいという“あまやかす”とは違うのですが、問題が起きた時、“厳しい対応”ではなく理由を聞き、その気持ちを受けとめながら「次は~するのがいいね」と“やさしく”対応してきた。

 でも、それは少し違うかな、それだけでいいのかな…って考えるようになった。

 子どもを怯えさせる“怖い教師・先生”にはなりたくない。でも“やさしい先生”だけでいいのか? 山﨑先生は“とてもやさしい”、でも何か大切なところでは子どもたちにきちんと要求しているんじゃないかって考えた。

 3年生のクラスの中で日々問題を起こし「この子とどう向き合っていったらよいか」悩んでいたA君がいる。そのA君と3学期の終わりに時間をとって2人で話した。

 A君は言った。「ぼくは、生まれてこなければよかった」「ぼくは、みんなに嫌われている!」って。

 その言葉を聞きながら「これからどうしていこうか」って話し合った。

 その時、私は言った。

「A君、厳しいことを言うよ。あなたが間違ったことをしたり、みんなに迷惑をかけそうになったとき、先生は『A君、それはダメ! 考えて!』みたいなことを言うよ。その時、キレないでね。自分の“怒り”の気もちを押さえられるようになったらいいな。そうしたら、みんなのA君を見る眼が変わると思うの。先生と一緒に挑戦していこうよ」(※正確な言葉の引用ではない)

 そのことがあってから、4年生になって、みんなのA君を見る眼が変わってきた。

「先生、A君、このごろちょっと変わったね」「A君、キレなくなったね」

 そんな声が生まれてきた。

 私は思いました。“やさしい先生”か“怖い先生”かという見方でなく、その子が変わってほしい場面などで“要求する”ことって大事なんだって。その子を“信じて”大事な時には“言うべきことを言う”ような先生が大切なんじゃないかって。

坂田さん: パニックを起こす子は、それがその子の持つ「特性」とか「人格」(の一部)みたいに見られがちだけれど、周囲からくり返し「ちょっと、それはダメだ!」「そんなことぐらいでパニックになるな!」って、絶えず言われ続けてきた子が多い。そんな“圧”を受ける中で育ってきた。

 子どもは“誰もがみんな次の段階に伸びて行く力があってそれを支えるのが学校”―。

 A君も、今ある自分を“乗り越えて行く”ことが求められ、“一緒に行こう”って応援されたい。

 瑠夏さんの話でとても“だいじ”だなあと思ったのは、A君と瑠夏さんとが“合意”をしているところね。一方的な教師からの言い聞かせや説得ではなく、ちゃんと対等に話し合って「こう変わって行こうよ」って合意を得ている。ここが凄い。

 “やさしさ”とか“よりそうこと”の大切さがよく語られるが、それは“賢さ”や“理性”に支えられている必要がある。問題に対し「どう解決していくか」などの道すじが見えて行くようなそれであることが大切なんだと思う。

(※この坂田さんの語りは、山﨑による聞き書きメモを頼りに書いたもので、少しぼくの解釈を加えた文章になっている所があります…。ご容赦を!)

 

啓太さんの話  高志くん(仮名)の小さな成長がうれしかった

 “学級崩壊”という言葉があるが、子どもたちが教室で生きる姿を見ていると“崩壊”という言葉は子どもの言葉ではなく、大人や教師(教育関係者)が状況を見て作り出した言葉ではないかと最近考える。

 Ⅾ小もいろんなクラスがあって、子どもたちがいろんな生き方を見せている。ちょっとぼくから見たら驚くような…。

 最近の学校の様子は、“勉強の匂いがしない”と言ったらいいか。児童会の執行委員選挙などで学校全体が動いている。ポスターを描いてはったり、クラス回りに(投票依頼かな)いったり。

 5年生を担任している。少し難しい対応を求められる男児が何人かいて、そのうちの1人に高志(仮名)という子がいる。“シャイで自己主張を押さえてしまい心を閉ざすところ”と“鋭い思いを抱え外に表現したい願い”とがあって(※⇒ここは啓太さんの言葉ではない。話を聴いていて山﨑が思いついた言葉です)高志を支え、学級で位置づけて行くのがけっこう難しい。

 各クラスから執行委員選挙を支える実行委員を出さなくてはならないのですが、ぼくのクラスからは誰も立候補しない。しかし、高志は友だちのB君が副実行委員になれば「やってもいい」みたいな様子を見せた。それで特別だけれどB君と共に活動することを前提に高志になってもらった。

 しかし、実行委員になるためにはみんなの前で挨拶をしなくてはならない。それがプレッシャーになり、翌日から不登校になってしまった。「立候補は辞めたい」と母親から連絡。

 その電話を受けてぼくは母親に言った。

「高志君は、ここで変わりますよ!」

 と。高志は立候補の日、あいさつ文を紙に書いてもって来た。みんなの前に立つ。声がでない。それでぼくが1行ごと後ろから読むところを指示してあげた。すると彼は、たどたどしい読み方だったけれど何とか読み終えた。

 彼の表情をみると一つのことを乗り越えたいい顔をしている。ぼくは安堵した。高志のそんな様子が見られたことが、最近の出来事の中でとてもうれしいことだった。

 それから最近思うこと。5年生のクラスの女の子たちが、けっこう“愚痴”を言ってくるようになった。友だちや校内の先生の悪口なども含めて。かつてのぼくだったら、例えば秘密の手紙のやりとりをしていたら「それは止めたほうがいい」と言ったし、「陰で悪口みたいのを言われたら傷つくよ。そういうのはやめよう」みたいにそれを否定していた。しかし、そうした心の中に生まれた感情や言葉にならない思いを語り出す場があったり、それを聴いてあげたりするのも大切だなと思うようになった。子どもはそうやって、内に抱える思いを吐露しながらいろいろ考えつつ成長していくっていうか。(※啓太さんの言葉の正確な引用ではありません…)

 

耕一さん  ぼくは嫌われている? でもそれは違った!

 昨年まで何年か国際教室の教師だった。今年からは2年生の担任。そこで気になることがあった。子どもたちが「先生、先生!」って寄ってこない。ペンギンの人形を教卓においても興味を示さない。

「どうしたんだろう? 嫌われているのかな?」

 と、思った。

 ところが、ある保護者と先日話すことがあったが、

「先生、家でわが子が教室にある『ペンギンの人形』のこと話すんですよ」

 驚く。そうか、子どもたちはちゃんと学級のことに関心を寄せているんだ。この子たちは、こういう関わり方をしていけばいいんだ。無理に迫って行く必要なんてなくて、ゆっくりとこの子たちのペースで今年は関りを作って行こう―そう思った。

 2つ目の話。子どもたちは“先生の言っていることはみんな正しい”と思っている。

「先生が間違えていたらね、『間違ってます』みたいに言っていいんだよ」

 と、子どもたちに話した。

 この間、週の変わり目に『掃除当番表』を変えなくちゃいけないだけど、それを変えないままにしていた。班ごとに掃除の場所や仕事が変わって行く。子どもたちが集まってワイワイ言い合っていた。そして、『当番表』を変え始めた。

 ぼくが、「当番表ね、なおしておいてね」と後で語ると、「先生、もう直しておきました」って、子どもたちが言った。

 子どもたち同士が話し合う場を実践の中で大切にしたいと思っていたけれど、こういう場面がこの子たちに生まれてうれしいなと思った。学びや生活の中でも「先生、そこはちょっと違う。こんな風に考えた方がいいんじゃないですか」みたいに、言える子たちが育っていくといいなと思う。