学びをつくる会 髙木くん白根さんから学ぶ

 2024,6,16ブログ

 15日(土)、午後1時半から学びをつくる会があった。国立駅近くの『ひかりプラザ』で。

 この日、ぼくはちょっと失敗。小さな旅をしてしまった。

 立川駅まで南武線で出たがこれは快適だった。速い。その後がいけない。中央線の上りのホームに行くと2本の列車が並んでいた。「こちらの電車でいいな」と思って乗ったけれど、走り出したとたん、アナウンスが聞こえた。

「次は~、国分寺~、国分寺~」

「えっ、国立に止まらないよ。注意して乗ったと思ったのに…。しょうがないなあ」

 失敗を悔いる。電車は国立駅を風のように通り過ぎていった。国分寺駅で降りる。階段を登って降りて、下り電車のホームへ。

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 会場の『ひかりプラザ』まで歩く。暑い! 予想以上だ! 

 徒歩5分と書いてあったけれど、この日はもう少し長い時間歩いた気がした。

 部屋は203(?)。

 扉の前で陽さんに会う。入り口の受付には春佳さんがいて驚く。「来られないかな…」なんて勝手に思い込んでいたぼく。ごめんなさい。職場の若い仲間たちを誘ってきたんだ。

 会場内には、たくさんの友人たちがいた。初参加の方もいらしたけどね。ZOOMではなくて直接会えるのがうれしい。みんな元気そうだ。

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(1)ナイーブでゆたかな子ども観を持つ新任教師・高木君

 約束の1時半に開会。始めに簡単な自己紹介。

 最初は『ミニ報告』ということで、今年の春教師になったばかりの髙木君(“くん”という言い方は、彼を表現するのにぼくにはなじみがあって、こうした呼び方をしている)が、担任する6年生の学級の様子を語ってくれた。1人の女の子と1人の男の子に焦点をあてて。

 教室の出来事をよく見ている。子どもと生きる日々の中で、その子の事実を丁寧に見つめ、そのことの意味を考えようとしている。4月教師になったばかりだというのに、この数カ月、地に足のついた実践を展開している。子ども観と実践観がしなやかだ。

 勿論、この数カ月の間に、落ち込むことや悩むこともたくさんあっただろうけど…。

 ぼくが特に気に入ったところがある。

 それは、彼がこう語ったところ。

「ぼくは、思いがあっても、それを直接口にしないタイプです」

 これはどういうことを意味しているか。学級に小さな困難や問題が生じたとき、安易な叱責や「管理」、“恐持ての対応”をしない。いつも思いとどまる。そこに彼の人間的魅力がある。

 私語のやまない少年がいた。社会や理科の授業で、その授業を担当する教師の困り感が伝わってくる。「もう少し君のクラス、厳 格に注意した方がいいんじゃないか」みたいな…。でも、彼は自分の担当する国語や社会の授業で、少年の私語と向き合いながら、次第に彼を学びの世界に取り込んでいく。

 だから、高木君の心の中には、もう少し時間をかけて少年をみていきたい…、違った「指導」を模索していったら変化が生まれるのではないか…と、そんな考えが生まれているように思う。

 髙木君のよさは、温かさを背景にした子どもを見る眼差し、ナイーブな人間観にあるといっていい。一見、“厳格さ”を欠き、子どもに“大切な要求のできない”教師のようにみえるが、彼特有の“教育哲学”がそこにあって、安易な「指導」に陥らない、深い思索が流れているように思う。

 今日の困難の多い教室において、この“軸”を持ちながら生きることは、これからの教師人生で何度も試されるだろう。揺れて揺れて、悩み葛藤することもあるだろう。しかし、“この軸”を持っている限り、自己の教育実践を問い直し、修正し、大切なものをきちんと押さえる教師でありつづけるだろうと思った。

 

(2)子どもの事実を見つめ、その意味を問い続ける中で、真の発達の意味を発見していく白根さん

 白根さんは神奈川県の公立小教師。10年の教師生活のなかで5年間育児休業をとられたという。

「私はまだ新任ですから…」

 と、笑いながら話し始めた。

 白根さんがこだわっているのは『子どもの事実から子どもを捉え直す』ということ。この視点を中心に、教室の子どもたちについて語ってくれた。

 お話し全体を通して、ぼくが一番強く感じたことは次のようなこと。

 第1は、学習を始めとして様々な困難を背負う子どもたちの様子が具体的に話されたが、その子たちを否定する視点がまったくないことに心を動かされた。いろんな課題を持つ子たちだけれど、「教室からその子たちを排除する視点」は一切ない。白根さんという教師の人間的な温かさ、魅力を感じた。

 漢字が覚えられない、うまく書けない、ひらがなさえ表現に間違いがある…そんな子どもたちを、どのように指導していったらいいか、問い、悩む姿が丁寧に伝えられた。

 第2に“これは鋭い子ども理解・発見”だなと思わされたところ。

 それは、最後のまとめに書かれた言葉だった。次のような表現がある。

「できないことができるようになることだけが、発達じゃない。(Kくんが友だちと話したり、絵を描いたり、本を読んだりしていたのは必要なことだった)」

 この発見の意味はすごく大きいと思う。ぼくら教師が忘れがちなことだ。教師は、子どもたちにAを教えてAが身に着くことに「教育の力」をみる。「自分の力量」や「教育の成果」を感じる。これとは逆に、教えたことが子どもの身に着いていないとイライラする。ときには「この子はダメだ」と思ったりする。

 白根さんは、今回の報告では「50問漢字テスト」の答案を紹介しながら、『学習の事実』を語ったが、その過程で、子どもたちの持つ、新たな側面『育ちの事実(意味)』について発見していったのだ。

 上記の言葉はどういうことを意味しているか。

 Aを学びAができることになることだけが子どもの発達ではないということ。その周辺に多様な「子どもの生活の事実」が積み重なって、その子に“生活の広がり”とか“経験の広がり”が生まれ、そこに“明瞭な形としては見えない”けれど、“その子の学びを受けとめる力、理解する力、学びの土台、受け止める土台が形成されている”ということ。その発見だ。即自的な意味での“発達”ではないけれど、確かな“人間的器の広がり”や“新たな課題を受けとめようとする力量”が、その子の中に形成されはじめているとみるのだ。

 教育実践の深い意味を問うような発見だ。あらためてその意味をぼくらに伝えてくれた。

 教育学で誰かが言っていたように思うが、“水平的発達”と“垂直的発達”という言葉がそれに合うか。あるいは“量的発達”から“質的発達”(これは茂木俊彦氏だったかな?)という言葉がふさわしいか。そういうゆるやかで大きな眼差しにたった子どもの学習や生活の育ちを見て行く必要があるということ、この気づきだ。

 白根さんのこの発見は大きい。

 そうすると、50問漢字テストでわずか数問しか書けない少年や少女の見方も変わってくるだろう。

 その子が、ある漢字にこだわり、鋭く自らの生活などと結びつけて、書けるようになる、身につけて行く、それは50問の中のただの1問でしかないかもしれないけれど、子どもと漢字の深い結びつきとなりその子が文章の中に取り込んで表現する! そうした時、初めてそれは真の子どもを育む『学習の事実』がとらえられたというのではないか。

 そんな、子ども理解へのより深い可能性を感じさせられる報告だったように思う。

 勿論、つまづきの内容、学習上における認知的困難の分析、そこからの“適切な指導”の模索と試み等、把握すべきことはたくさんある。そうしたある種の教育科学的な分析と、今を生きる1人の子どもの心の中に激しく行き来する心の動きや、学びを含めた成長への意欲のようなものをどうとらえて行くかが、共になされることが求められているのではないかと思った。