新任教師カズヤ君との対話 ―7―           2024,5,27ブログ

 A県に採用され、小学校6年生担任となった新任教師カズヤ君。5月の連休後の数週間についていくつかの出来事や教師としての思い・感想を記す日記を届けてくれた。

 今回も、その一部を紹介させていただく。

 春から教師になった皆さん、カズヤ君の率直な文章にふれながら、自分はカズヤ君と一緒かな、少し違うかな…など、共に考えて下さったらうれしい。

 ぼくの、返信も含めて是非読んでみてください。(カズヤ君の日記の抜粋と太字や山﨑による)

 

◎カズヤ君からぼくへ …素直でかわいい子どもたち。しかし慣れのためか私語も生まれて

 なんだかとてもお久しぶりな感じがしています。カズヤです。

 5月の連休明けは、何かに追われているような日々が続き、気づけば自分に余裕がないような感覚でした。5月の中旬に郡の陸上大会が終わり、放課後の陸上練習をしていた時間が自分の仕事ややることに使える時間となったため、少しだけ余裕ができた気がします。今週は19時頃には帰宅できていた週でした。(先週はほぼ20時すぎ~21時だったんじゃないかな)

 

 連休明けからも、特に大きな揉め事等はなく、平穏に?過ごしているのがクラスの状態です。

「6学年として下級生の見本にならないとね」と指導することは多々あっても、叱られたからシュン…とするクラスではなく、叱られた後もすぐに話しかけてくるような子たち。とてもかわいいなと思います。叱られた意図を自分たちで分かっているのでしょう。その後の行動も徐々にではありますが、いい方向に変わってきました。

 例えば、連休明けは授業中のおしゃべりや休み時間が終わっても授業の準備ができていないなど、「6年生としてどうなの?」というようなことでクラス全体を指導する場面が多かったのですが、「自分たちで考えて行動するんだよ」ということをことあるごとに伝えた結果、自分で考えて動けるようになってきた子が増えていると思います。その行動が少しずれたとしても、それはその子が自分なりに考えて動いた結果なので、そこはしっかりほめています。そこまで動ける子が増えてきたのも、連休明けから子どもたちの状態が良くない方向にずれ出していたことから始まりました。

 

 もっと早い時期にこの指導はできたはずなんですけど、連休明けから子どもたちの本性?!が表れ始めたのはちゃんとわけがあります。1つは慣れてきたということもあるんですけど、僕が「怒らない先生(叱らない)」ということを子どもたちが読み取ったがゆえに、ちょっとよくない方向にずれていったのを連休明けに感じていました。なんとなく授業がやりにくかったり、雰囲気がなあなあだったり、私語が多いなと感じる場面もほぼ毎日毎時間。「自分たちで考えて行動しようね」というのは4月当初から言っていたことではあるんですけど、その基盤がちゃんとできていなかったなと今は思います。僕自身にメリハリがなかったのかもしれません。「少しぐらいまあいいや」である程度を許していたせいもあり、それが出始めたのが連休明けでした。

 まずいなと思い、どうすればいいかなと思って過ごしていた日々でしたが、「怒るのいやだな」と思う自分もいてなかなか思い切った指導ができずにいました。「でも言うべき時に言わないとな…」っていうのも感じてはいたので、思ったことは良いことも悪いことも伝えることにしようと思ったのが先週ぐらい? その前あたり?

 伝え方はいろいろ考えながら伝えることにしました。短い言葉で済ますときや、長く語ってみたり、やり直しをさせてみたり、時にはでっかい雷を落としてみたり(笑)。試行錯誤しながら少しずつ、子どもたちも僕も変わっていっているのでしょう。鉄は熱いうちに打てという言葉がありますが、まさにその時に指導しないと子どもたちにも響かないなということを感じた日々でもありました。

 

 とても素直な子どもたちが多く、裏表がないのがいいところ。どの子もその子に対して直接ほめる機会を意図的に作って、「先生はあなたのことを見ているよ」と認めてもらっていると思えるような声かけは意識しています。その甲斐もあるのか、ひねくれるような子がいなくて安心しています(もともとひねくれた子がいないクラスなんですけどね)。だから言っても大丈夫と思えるようになりました。叱るの嫌だなと思っていたのですが、学級を子どもたちが安心して過ごせる場にするためにも、時として舵を切ってあげるのも大切なんだなと思った5月でした。

 

 梅雨の時期が近づいてきて、天気も心も不安定になりそうな6月。子どもたちとのどんなドラマが待っているのか楽しみです。しかし、授業をすることはなかなか難しいですね。迷いながら日々奮闘中です。授業に関しては、「ああでもない…こうでもない…。ああああ難しい。。。!」で、1年間が終わってしまいそうです(笑)

 まずは明日からまた頑張ります!!

 

 

◎カズヤ君へ  

新任教師の悩みと葛藤がヒシヒシと伝わってきます。また、子どもの見方・対応のし方について模索する姿も

『新任週末日記』⑦ ありがとう。

 日記を毎週書くのは大変だよね! ノルマが返って自分を苦しみの中に追い込んでしまうからね。3週間ぶりかな? どうか気にしないでください。

「カズヤ君、どうしているかなあ?」

と、少し心配はしていましが読んで安心しました。

 いくつか感想を記しておきます。

                    ※

1,全体として、自分の教師としての子ども対応と生き方の確認みたいなことが中心になっていますね。

 きっとそのことが君の心の中で中心となり、悩みつつ君の納得のいく答えを求めていたんだろうと思う。これはこれでいいよね。

2,素敵な子どもたちの姿が、伝わってきます。おしゃべりはするが憎めないかわいさ、素直さ、人懐っこさが全体から伝わってきます。こんな6年生の集まりってなかなかないよ。いろいろあって当然だからね。

 ただ、これは学校全体の先生方と、君と言う担任のもつ人間的魅力が、子どもたちのよさをひき出し、包み込んでいることも大きな力になっているだろうね。勿論、子どもたちみんなが持つ力の大きさも!

夏休みを迎える頃、そして終えた2学期、子どもたちのしぐさや表情に新たな世界が生まれ始めるでしょう。これまであんなに素直だったのに? えっ、少し違った雰囲気を持ち始めたな? みたいな。これはこれで、成長への変化の一部として緩やかに見つめていきたいですね。

 ただ、そうした個人的とも言える言動に一定の自主的ルールや筋道をつけるのは、今ある6年生として“君のクラスの中での生活づくり(学級づくり)に基本が”あります。みんなで話し合って大切なことや楽しいことを決めていきみんなでそれを宝物にして守って行くようなそんな雰囲気を作っていきたいですね。これが2学期からの日々をささえるちからにもなりますよ。

 

3,教師のあり方について

 カズヤ先生はやさしい先生、怒らない先生、みんなひとり一人の話をよく聞き真剣に考えてくれる先生…!

 これは、大切にしていっていいと思います。君の中に教師と言うものへの力づくの権威よりもっとそれとはちがう対応によって心を育てて行くことができるはずだというイメージが強くありますから。

 さて、その上にですが、ぼくはもう1つ、君が子どもたちにとって『憧れを生む先生』であってもいいんじゃないかなと思います。

「カズヤ先生はスゴイ!」「俺たちクラスの先生は〇〇には熱い」「〇〇には滅法詳しい!」みたいに。

 君の得意な体育では、ボール競技(ドッジボール、キックベース、野球型ゲーム、バスケットボール…、そして何よりも走ること(ハードル、リレー、マラソン)、つづいて跳躍(走り幅跳び、高跳び)、また器械運動(鉄棒、跳び箱、マット)ほかに投擲などもあるかな(笑い)

 まあ、こういう運動で、時に子どもたちに混じって魅力的な力を見せてあげてください。子どもたちはシンから君を憧れるでしょう。それで威張る必要なんかはなくて、子どもたちが君の言葉を受けとめることのできる“見えない憧れに支えられた権威”を感じることができるのです。

 それは、休み時間になると決まって全力で相手になり遊んでくれる先生の姿でもいいのです。その姿が子どもの心を打ちます。

 雨の日など、教室にマットを持ち込んで相撲大会などするのも楽しい。123班対456班などとして遊ぶのですが、最後に、時間をとって君と対戦する…半数でないと大変かな。ぼくは「先生と対戦したい子出ておいで」と言って、順に戦って上げました。(男女区別なく)こういうことで、大人であるぼくたちのクラスの担任の先生の身体にふれ力に触れ、圧倒されながらも何か心地よい体験をしてくなども重要な意味があると思います。

 子どもたちの“見えない信頼”によって、クラスづくりに対する教師の言葉はよりしっかりと子どもたちに伝わっていきます。

 これは、スポーツだけでなくたっていいのです。本の読み聞かせでも、絵でも、歌でも、ダンスでも、ズッコケて失敗したって、ぼくらの先生が夢中で何ごとかに挑戦している姿たって応援したくなるものです。涙を流しながら読み聞かせをしたってね!

 勿論、ふんだんの赤ペンの返事でもね。

 つまり、それは何であってもいいのですが、そこに子どもの心を深く動かす人間的な力や愛を感じさせられるってことが大切だと思います。

 先生は、この点になると本気だぞ、本気でぼくたちに、私たちに迫って来る、そして、新たな世界を見せてくれる!そういう人間的迫力や誠実さをかんじさせられるような側面があってもいいと思うのです。

 クラスにトラブルが生まれた時など、全力で集中して、しかも丁寧にひとり一人の話を聴きながら、みんなでねばり強く読み解いていくような姿勢が、子どもの心を打ちます。ただ「やさしい先生」なではないことが子どもたちの胸にきちんと伝わっていきます。本物のやさしさがとわれるわけですね。

 

4,さて、きょう一番伝えたいことは授業のなかの私語について

 これは、心傷む出来事ですね。せっかく真剣に授業を進めていても、サワサワとお喋りがどこからか聞こえる、いま大切な時間なのに、教室の数か所から私語が聞こえる。

 これは、率直に言ってなくしたいですね!

 なくす手立ての1番は、子どもたちの誰もが参加したくなる活動を提示したり、考えたくなる問いを発することです。問いから生まれた疑問で若干サワサワと私語が生まれても、その私語は問いから生まれた私語。不必要な私語ではありません。問題は、こんどはその私語がつぎつぎにみんなの前でたいせつにされ語られることです。

※例えば『大造じいさんとガン』の授業で、“じいさん”を皆で語り、“大造じいさん”を語り合う。そして、今後は“ガン”について自由発言。しばらくやりとりしたあと、“大造じいさんとガン”の“と”を赤いチョークで囲む。この“と”が意味することは? などと問いを深める。題名を読むだけで、なんだか物語が魅力的に立ち上がってくる。こわごわ発言する子もそうでない子もみんなが平等に物語に集中していくように…。

 一つの疑問、問いをめぐって、いろんな意見が交流し始めるクラスづくり、授業づくりを目指してください。

勿論、時には、グループ(3・4)討議をして、答えを出し合うとか、黒板の前の問題をグループごとに解くとか課題を出して言っていい。

 要は、授業の内容に子どもたちが惹き込まれること、夢中になる事です。この夢中が生まれている中での私語は気になりませんね。だって考える時っていろいろ声が出てつい友だちに(これはどうだ?)みたいな呼びかけをすることだってある。

 ぼくは、何げないふだんの授業のなかで、みんなが耳を澄まし聞いている時、私語がほんの少しでも生まれたら(4月が多いかな)、一瞬口を閉ざし、みんなに待つように合図します。私語をしている2人が気づいてこちらに集中したら、叱らないで話しを続けます。4月~6月頃は、ときどきこういう場面があったかな。

 子どもたちは、慣れてくると、教師であるぼくの意図を知って、自らコントロールして無駄なおしゃべりはしなくなります。

 こうして、学級に聴くことの大切さと楽しさを生み出していきます。  (2024,5,27記)