えっ、まだ学校にいるの?           2024,5,11ブログ

 雑誌『教育』への執筆依頼をしていた佳代さん(仮名)から携帯にショートメールが届いた。

「10日までには原稿送りますね…」

 と。佳代さんは教師になって13年目くらかな。

 約束通り10日の夜、原稿が送られてきたが、文字数を確認してみると行き違いがあったのか大分不足している。慌てて電話した。時刻は夜の9時半。

 携帯の呼び出し音が鳴るけれど出ない。食事にでているかな? それとも風呂に入っているかな?

 そう思って必要なことを記して携帯とパソコンの両方に送った。

 すると今度はショートメールが帰って来た。

「私の理解不足でした。すぐ直して送ります!」

 時刻は9時58分。もうすぐ10時になる。

 その瞬間これはちゃんとお話した方がいいかなと思って、遅い時間だったけれど電話した。

 すると、佳代さんが出た。久しぶりに聞く佳代さんの声だ。

「ぼくの連絡、読んでくれた?」

「はい。わたし、原稿を執筆していてパソコンのページ表記を見て、これで文字数は十分かなと思って送ってしまいました」

 その後、原稿の加筆についてお願いした。

「先生、今、わたし学校です!」

「ええっ! 夜の10時だよ。びっくりするじゃない!」

「わたしの学校、けっこうこんな感じなんです…」

「何してるの?」

「いろいろやることがあって。提案することとか授業のこととか…」

「身体、大事にしてね!」

 そう言って電話を切った。

 暗闇の中、煌々と明かりの灯る夜の学校の様子が目に浮かんだ。しかし、これは30~40年前の学校の姿だったけれど…。

 

 心傷む、初年度で辞めていく新任教師たちのこと

 本日の朝日新聞朝刊の【社会・総合】のページ上段に(31p)「教委・国、若手教員へ支援策続々」の記事があった。そこに「採用1年未満での退職増加」の大きな見出しつけられていて、記事を読んでいくと、採用1年未満で教職を辞めた新任教師が(文科省調べ)2022年度は前年に比べて98人増の635人であると記載されいる。内、精神疾患を理由に辞めたのは229人だという。

 記事には、2016年度からの辞めた新任教諭の数がグラフ化されているが大きな右肩上がりを示していて息を飲む。

 「う~ん!」と胸が痛い。ぼくは、ブログで何度も記しているが、若い教師たちの持つ魅力は測り知れないもので、未来を変えていく力がある! そう思っている。ただ、彼らの持つこの魅力や内部に潜む力が、いわゆる「即戦力」を求められるような学校の現状において、激動・激務の中に投げ込まれ、教育の喜びや子どもと生きる喜びを感じる前に力つきてしまい、自己を責めたり、教職への魅力をすっかり失ってしまう現状があるようだ。

 勿論、ぼくは若い教師たちに言っているが、命を奪われるより辞めるという選択をとる方がずっといい。

 実はこの春、関東近県で働くベテラン教師・哲也さんからこんな話を聞いて耳を疑った。

「びっくりしました。そして、困りました。4月の辞令伝達式のあと学校にやってきていた新任教師の一人が、入学式・始業式前に辞めてしまったのです」

 いろいろと教委や学校で対応はとったようだが、とても辛い思いを感じた。出会うはずだった子どもたちのこと、また本人自身のこと…。まず、その若者は、命を縮めたりしなくてよかった!

 一方、子どもたちは、胸をふくらませてやってきた新学期のスタートで、担任の先生が発表されて、わくわくした出会いをしたあと、数日後に大すきになりたいと思っていた先生が辞めた!…と、聞いたらどんなに傷ついたか。少なくともその状態は避けることができたわけだけれど…。

                    ※

 先ほどの新聞記事によると、教委や国は、若手教員支援の取り組みを始めている―という。しかし、その内容を読んでも、心は弾まない。何か、根本的なところが間違っているような…。

 ぼくが、感じたことと取り組んでほしいことを以下2点記しておく。

1,「サポート職」の配置に対する疑問

 「サポート職」の配置は、ただでさえ上下関係による支配が強まっている職場に、新たな細かい上下関係が持ち込まれることになって、教育的な職場がより失われていくことになるだろうと危惧する。

 求められるのは、「サポート職」と言われる若い教師も、職場内のベテランという教師も、ゆるやかに深く、子ども・教育・授業・学校などについて、新任教師と共に、対等に心を開き、話し合える場が作られることだ。その余裕がないことが問題なのだ。

 教育は、真理・真実に忠実であるべきで、それぞれの経験や年齢に左右されることなく、そこに集まるすべての人たちが、誠実に問い、悩み、考え、問題と立ち向かい、新たな世界を創り出していくとき、新たな発見や気づきが生まれていく。そして、道が切り拓かれる。

 この過程を通して、そこに参加するすべての人たちの自己への省察が深まり、明日からの教育に対する瑞々しい自らの力が湧いて来るといっていい。教育に関わることの喜びが、新任教師を鼓舞するだけでなく、超ベテラン教師においても再生されていくだろう。

 上位に立つ誰かの言葉が「正しい」と思えるのは、そこに若い仲間を支配する意図のない“誠実かつ真摯”な語りや提案がなされたとき初めて心を動かすのであって、若い仲間の存在に対する敬意や、その声の持つ輝きを尊重しつつ提示されたときにおいてだろうと考える。

 そう言う場が、ずっと奪われてきて、いま学校は生きづらい場になっているのだ。ここを抜本的に国や教委は見直して、教員同士の豊かな関係性や学び合いを保障していくべきなのだ。

 

2,さて、この提案の前に、抜本的に変えてほしいと思うことはある。

 その第1は、教育内容の根本的見直し・削減=授業時数の削減に取り組むこと。基本は、子どもたちが、ゆっくり、楽しく、深く学ぶ時間の保障。休み時間の保障。例えば小学校高学年の6時間授業日を週1・2回程度に。

 ぼくは、小学校においては、教科の時間、総合の時間、英語の時間、他、もう一度検討し直して、子どもの成長・発達にふさわしい内容にすべきだと思う。

 一人ひとりの子どもが、自らの生を“肯定”し、“誇り”を持って生きられることが、今の学校において一番大切にされるべきだと思う。日本社会の抱えている経済的・社会的論議を理由に重視する“教育目的論”等は後回しにされるべきだ。

 次に、学ぶこと・知ることへの驚きが保障されること。それぞれの子どもが、それぞれのし方で“学び”を通して“世界を知り、自分を知り、仲間たちを知り、そこに流れる時間や場を尊いと感じる”こと、それが大切だと思う。そこからゆっくりと、誰もが切り捨てられずに学びを深めて行けばいい。

 第2は、ひとり一人の教師のもち時数の上限を決め、それに見合う正規教員を増やすことだろう。このことによって学校にどれだけゆとりが生まれることだろう。

 ひとり一人の教師が、新任教師も含めて、自由で安心して学校にいる全ての仲間や教員たちと語り合える場が生まれたら、教師になって1年に満たず、早々に辞めて行くような教師はなくなると思う。

 教育や子どもをめぐって、新任教師もベテラン教師も、管理職も、みんなで喧々諤々意見を述べあい、互いに学び合えてよい時間だったなと思えるような職場ができたら、学校に見切りをつけて辞めて行く教師はかなり少なくなるような気がする。