『学びをつくる会』…武村さんの話を聴く 2024,2,26ブログ
2月24日(土)午後の2時から『国立ひかりプラザ』で『学びをつくる会』の2月集会が開かれた。
この日の会場は5階会議室。階段を登って行くと、お父さんに手を引かれた「みかん君」が降りて来た。「みかん君」の持つ不思議なパワーと出会えて、もうそれだけで来たかいがあったね。5階までの長い階段を一気に登った。
会場の部屋に入ると「ロの字」型の席にみんなが座っていた。
遠く都留からやってきた学生たちが「ロの字」型に並べられた机の一画を占めて座っている(A君は別席だったね)。彼らの飽くなき学びへの挑戦がうれしい。数日前、奈良教育大学附属小の入澤学級や鈴木学級を訪ねて来たばかりだ。
気づくと、学生に混じって谷口君(以下、君という言い方、時に応じてですが、親しみを込めて自然体で使わせてもらっています。佐田君の場合も…ね)が座っている!
「お~い、君は学生のふりをしているな」
でも、4月に教師になる学生たちと若い仲間の教師・谷口君が共に並んでいて、そこには未来につながる新たな関係性が生まれているようで「いいな」と思った。
会場の手配は佐田君がしてくれた(と思う)。司会は増田さん。友人の西田君や千葉さん石井君たちもいる。あゆみさんや和美さんも! この日は、さらに片岡先生や高知からのお客様・藤田さんも参加。
会場の入り口には、霜村さんが新著を並べてど~んと座っている(後からK君が本を運んで来るという)。ちょっと“やさしい親分”の感じだね。
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この日の提案は武村健司さん。
開口一番、こんなことを言った。
「ぼくは、早口になる傾向があるみたで、今日はゆっくり話してみたいと思います」
大切な言葉だと思った。ぼくの場合は、話し出すといろいろ話題が飛んだり長く喋り過ぎたりする傾向があって、これを気をつけなければならないと思っているんだ。だけど人には癖があるからね。
武村さんのテーマは『学級づくりの提案』。
話された全体には触れられないが、ぼくが少し思ったことをこのブログに記させていただく。
(1)自らの実践への誠実な省察が…
話全体を通して一番強く感じたのはこのこと。教師11年目になるという武村さん。常に彼らしい問題意識を持ち、教師としての生き方や自らの実践そのものの意味を問い続けてきたように思う。それは日頃彼と接していてよく分かる。対話していて武村さんの内部から絞り出される言葉には、自己の実践について自問自答し、思考を巡らしながらその意味や価値について考えている様子が伺える。悩むといより、モヤモヤの意味を確かめるみたいに問い続けていると言った方がいいかな。
今回、レジメの中に一つの解答が示されていた。自らの問いと格闘し、導き出した現時点での思いが、わかりやすく短い言葉にまとめられて表現されていた。
武村さんは、このレジメに沿って実践の具体や教師として生きてきたこれまでのあり様を語った。ここにとても大きな意味があったように思う。
(2)武村さんの実践に対する願いの底にあるものが語られた
武村さんは語った。
「子どもの欲求から出てくるものを大切にしたいんです!」
“子どもの欲求”という言葉には、1人の子どもの持つ“内からあふれだすエネルギー”のようなものが感じられる。これを大切にして引き出すのが教師のしごとなんだと主張している(と思う)。
“子どもの欲求”は“子どもの要求”とは違う。“要求”というと、若干整理され正当さを伴う雰囲気が込められている。しかし“欲求”というと、まだ未熟さを伴うことが認められ、“その子の持つありのままの姿”、場合によって“わがまま”とも見えるような願いをも含みこんでいるようにも思う。
ぼくは、この考えに賛同を覚える。
日本の今を生きる子どもたちの、“子どもが子どもらしく生き・表現する自由”が、早くから摘み取られ、体の言い“形だけの要求”に組み込まれ、子どもたちの持つ大人や社会を凌駕するようなエネルギーが、抑え込まれ奪われているように思うからだ。
「失敗してもいいじゃない! 子どもってそういうものだよ! 困ったり、ケガをしたり、人を傷つけそうになったりしたら大人が介入すればいい」…みたいな、緩やかな“子ども理解”を大切にしたい。
武村さんは、その具体的実践について触れた。
例えば「会社活動」(係活動)の提案。自由で創造的な取り組みを応援する。(「キャンピングカー」を作って校内を練り歩く子どものグループがいたりして…。
もう1つは、休み時間にマンガを持ってきて読んだり、ポケモンカードを持って来た遊びたいという子どもたちから出された願いに対し、“子どもの欲求”として受け止めつつも、それをただOKするのではなく、学校と言う場の持つ意味に気づかせ、ルールを自分たちで作り、そのコントロールの中で活動する方向を指し示す。(単純にこれらを許した時、カードが無くなったり、お金のやり取りが生まれたり、そうした様々な問題が生じてしまう危険性もあるので…)
「学校の先生たちは、どう思っているかな…。まず、いろいろな先生の考えを聞いて来てごらん」
子どもたちはインタビューに向かっていく。
それで週1度だけ遊べる日をつくり、休み時間がおわったらそれをしまう約束など子どもたちが作り出していく。でもマンガの日やカードの日が異なると、休み時間外遊びをみんなでしたかったのに、メンバーが集まらなくなったりして、面白くなくなってしまうから、同じ日にしようと話し合い、火曜日に統一される。
この辺の子どもたちの動きがとても面白い。子どもたちの力を信じ、“子どもの欲求”から要求実現を自分たち自身で勝ち取って行くような流れがある。面白い。
(3)わが子の自然な育ちの姿に感動したこと
上に語られた物語とつながっているが、子どもたちの生きる現在を見つめながら、わが子の育ちにも触れ、武村君は語った。
何か、電車に乗っても、どこかにでかけても、大人たちの子どもを見る目が厳しくて、社会の圧力がとても強く、“子どもらしさの源”を摘み取っているのではないか! と。
「ある幼稚園の遠足の場面に出会った。子どもが涙ぐむと『泣くな!』『なぜ泣いてるの!』とその子を怯えさせるみたいに叱りつけている指導者がいた。また、別の日の電車内でのことだが、子どもたちがお喋りすると『ごめんなさい! やかましくして』と謝ったり、子どもが少し声をあげただけで『静かにしなさい!』と叱ったりする。ぼくの経験だが、電車内で年配の男性が『うるさい! 黙れ!』なんて怒鳴ってきた…。この姿に大きな違和感がある…。こんなに子ども世界を上から押さえつけてよいのか」と。(正確な引用ではない…)
そして、語る。
「『子どもの世界に入って行く大人』と『大人の世界に入って行く子ども』とがあって、それをどう考えたらよいか」
「わが娘は和光鶴川の幼稚園に入園している。とにかくよかったなと思うのは「先生が大好き!」だということ。ていねいにお話を聴き取ってくれて、わが子を見ていると、とても“満たされている”感じがする。これってとても親として嬉しいことだし大切なことだと思う。
(4)教師となった頃は保護者が怖かったけれど…保護者からのクレームはメッセージだ!と今は思う
子どもたちは『七頭舞い』を3年で踊る。手製の太刀を持つA君のこと。太刀が練習の後、どこかに消えてしまった。「隠されたんじゃないか?」本人が心配して、調べたけど見つからない。メールや連絡帳をいただく。電話をもらったとき「いま会議があって急いでいますから後で確認します」と答えた(武村さんの正確な言葉ではない)。
これに保護者が納得できなくて「社会人としてどうなのか」という訴えが管理職に届けられた。
「その時、ぼくが反省したこと。『ぼくはT君とちゃんと向き合ってあげていなかったのではないか?』『ちゃんとつきあう時間を持つべきだった』と。それで、翌日から丁寧に関わる。毎日のようにT君に声をかけて、そして、一緒に木を削り太刀を作ってあげた」
この関わりを、T君の保護者はとてもうれしく受け止めてくれた。このとき、保護者からのクレームは、保護者からのメッセージだと思った。(※このへんの文章も、武村さんの話した言葉そのものではありません。文責は山﨑にあります。間違っていたらお許しください)
◎武村さんへの新たなお願い!
さて、ここまで感想を書いて来たけれど、武村さんの語る内容はさらに多岐にわたっていた。その一つひとつの実践とエピソードに意味があるので、さらにもう少し詳しく話を聴いてみたいと思った。
昨年の夏の教科研大会で実践報告の時間をとってけれど、改めて今回の『教育実践と学級づくり』について問い直し考えたことを含めて、より具体的にいくつかの実践にこだわり、どう展開したか、彼らの動きや会話も含めて丁寧に聴いてみたいと思った。