外は雪、新書『教育は何を評価してきたのか』を読む

 外は今も雪。

都留はだいぶ積もっているだろうな。

 午前中は、ずっと本を読んでいた。

本田由紀著『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)。

昼前に読み終えた。3月19日発行。このあいだ出版されたばかりだね。

 先日、書店の新書コーナーで見つけて買ってきた。

教育に関係する新書は、できるだけ読むようにはしている。勿論、すべてではない。

個人的にぼくが、その本から何らかの刺激を受け、少し書き残しておきたいなと思ったときこのブログに記している。

 

いくつか思いつくまま感想を記しておきたい。文章は著者の本からの引用ではなく山崎の読みの理解から記していることをお断りしておく。

①今日、新しい指導要領をはじめ、教育界の強い言説となっている「資質」「能力」「態度」という言葉の持つ意味とその変容、さらにはそれらの言葉の持つ“暗黙の支配的イメージ”について、それらの言葉の持つ危うさや問題性を指摘している。そして、こうした言語を、教育に関わる者たちが安易に使うことに対し注意を喚起している。そこに込められた問題を問い直すべきであることを鋭く提案している。考えさせられた。

 「資質」「能力」「態度」―これらの言葉の意味するところは、ふつう教育にあっては、誰もが否定できず、肯定されるべき言葉のように見えるが、実質の中身は、国の定める目標(つまり国家的な戦略を担う人間像)に適合し、それを実現する子ども・生徒のひとまとまりの人格がそこに求められていると、さまざまな資料や文書を基に分析している。それは、極めて危険な方向性を持っていると。このあたり、とても読み応えがあった。

 

②著者は、日本の教育の問題性を2つの特徴的枠組みを提案し分析している。『垂直的序列化』と『水平的画一化』がそれである。

そうした2つの視点をもとに、最初に明治期から敗戦に至る教育のあり方について、さらに戦後教育の出発期と憲法や教基法に謳われた「能力に応じて」の文言のもつ問題性や課題が、そして、その後の繰り返される学習指導要領の転換と、それを具体化する歴史的・政策的展開の中で求められてきた役割等が分析される。

さらに、今日の異常と言える教育の歪みと危機に触れ、そこに見えてくる問題性を厳しく分析している。そして、最後に、これらの2つの視点を今後どうのりこえていくべきかという提案につなげている。

 

③『垂直的序列化』とは何か。子ども・生徒のもつ力を、ひとりひとりの豊かな可能性とみるのではなく、いわゆるテストや進学コースの振り分け等で分断し、上位から下位へと序列化していく日本の教育のあり方を著者はそう呼び、今もさらに新たな形でそれが強化されているとみる。

 『水平的画一化』とは何か。戦前で言えば、複線的教育制度下にあった子ども・生徒を、『教育勅語』という強い思想的しばりによって支配統制し、皇国民育成に収斂させていった教育のあり方をその言葉に込めている。

戦後のおいては、学習指導要領の改訂の度に、戦前を回帰するようなナショナリズムをもとにした思想的圧力が、中教審答申や指導要領の改訂の度に持ち込まれ、一定の文言がそこに加えられたが、この動きを『水平的画一化』という言葉でとらえている。

現在はさらに、そうした動きが強化されているとみる。それは例えば、『道徳』の教科化、学校スタンダードの強制、黙動・黙食・黙掃、ゼロトレランスを含めた規則決まりによる徹底した生活指導等によって、子ども・生徒を一つの「道徳的」・国家的支配下に囲い込み、統合を保とうとしている。

 

④戦後の日本の教育を特徴づける『能力主義』という言葉について、著者は、それは『メリトクラシー』の訳語で、本来その意味するものは日本での一般的な使い方とは少し違うものがあると指摘する。『能力』という言葉には、常に一定の曖昧さがつきまとい、多様な内容を含みこむ問題性があるという。

それは、最初学校に於いては『学力』という言葉による視点に読み替えられ、教育現場においてはその数値のよしあしによって分断差別化がすすめられたとみる。さらにその『学力』についても、当初、教育学者勝田守一が「学力」をあくまで「計測可能」なもの限るとした規定が、しだいに様々な意味や価値を持つものとして捉えられ、今日的な『学力』像を創り出していると。

そこに加えられた内容として、例えば『人格のゆがみ』に応える学力、『生きる力』『自主性』『主体性』とか『思考力・判断力・表現力』等。今日、新しい指導要領によって求められている『学力』には、一般的な学力の上にこうした情動的意味を加えて、『垂直的序列化』を一層激しいものにしていると述べる。著者はそれを『ハイパー・メルトクラシー』と呼ぶ。

 

⑤この状態をこのままにしておくわけにはいかない。どう打開するか。著者は『水平的多様化』を実現すべきだと述べる。直接的には高校の真に豊かな多様性を持つ学びの展開を生み出すこと。ただし、そこには差別や分断があってはならず、上部の教育機関への希望する者の進路が保障されること、『垂直的序列化』が根本的・本質的・具体的に乗り越えられた社会をイメージしている。

 

子どもが、自己が生きることの意味を納得し、肯定し、未来への憧れをもって生きられる、そして自己を豊かに表現できる教育のあり方はとても魅力的だ。人間の価値を、これまでの日本的な序列を生み出し、自己を否定する競争原理の中で捉える社会を、根本的に変革し、乗り越える社会のあり方が求められると指摘する。

実際はとても難しいことだが、今日の教育の閉塞と歪みを本質的・根本的に変革するためにはとても重要な指摘だと思う。

但し、著者も指摘しているようにここには極めて難しい対応(政治的政策的)が求められる。現在の政権を握る政治勢力は、大学進学率を落とし、国の大学にかける経費を安くし、生徒や人間を表層的な仕事への単なる振り分けのための進路に向けようとする歪んだ人間否定の『水平的多様化』への危険性も併せ持つともいえるからだ。人々の民主主義的力と差別のない人間観が形成されていなければならない。

 

著者は、本書の最後に実に厳しい言葉で次のように記していることは注目に値する。

「…日本の教育、ひいては社会を変えてゆくためには、戦前の「教化」の体制をよりハイパーな形で復活させようとしている、自民党政権およびその背後にある保守団体の姿勢を根底から転換させるか、あるいは彼らを権力の座から下ろすか、いずれかが必要であるということである」(p233