『学びをつくる会』第22回集会があった。

 スタッフの集まりは午前9時。会場は明治学院大学。途中道を間違えて遅刻してしまった。

 すでに10名近いなかまがいて準備を進めていた。


 「どのくらいの人たちがきてくれるだろう」と心配していたが、次々に参加者がやってきて、広い会場が埋まっていく。うれしかった。

 いくつかの大学からも参加。

 都留文科大学からも多数の学生たちがやってきた。

 3年生がいる。4年生がいる。ゼミ生たちも。

 みんな遠いところからやってきたね。でも、この学びへの姿勢は必ず未来の自分を支える力になります。


 会場の隅に、ゼミ卒業生のHさんがいた。

 「やあ、どうしたの。愛知から新幹線でやってきたの」

 「はい。朝の6時過ぎにでました」

 Hさんと同じ時期をゼミで過ごした仲間の近況を語り合う。みんな元気そうで安心した。


 若い現役教師たちもたくさん参加してくれて感動。忙しかっただろうにね…。


 10時開会。午前は佐久間亜紀先生のお話。『授業という世界 ―日常の中の小さな奇跡たち』というテーマ。

 若い研究者として出発したときの、一人の教師と授業を通して、学校や教師への見方を大きく転換された出来事からお話をされた。

 それまでの学校に対する批判的な眼差しから、子どもが生き、暮らし、教師が生き、願い、かかわり続けるその一瞬のなかに、授業の1時間や帰りの会などの小さな出来事とも言える日常の活動の中に、多様でかけがえのない物語が生まれ、子どもと教師の思いが交錯していること―それはまさに小さな宇宙でもあり、そこに素敵な価値があることを語って下さった。

 それは、まさにぼく自身も感じていること。

 ぼくは『教室詩集』の副題に≪ぼくたちの宇宙≫という言葉を添えた。

 

 「今日のお話は、何かすぐ授業に役立つものとは言えません」

 最初のそんな断りを入れながら、教師が生きるとは、またすぐれた授業とは何かを豊かに語って下さった。


 昼は、明学の学生食堂が開かれていて、みんなで食事ができた。これはいい。ぼくは、B県からいらしたYさんや臨床系ゼミのTさんHさんと食事。何とカツカレーなんか食べてしまった。


 午後の講演は、宮下聡さん。講演の前半は、いじめ解決をとおして子どもたちが大きく育っていく様子を、中学生が(子どもが)生きるとはどういうことか、そこに寄り添い生きる教師の果たす役割などを含めて熱く語って下さった。

 後半は、しなやかな子ども観を獲得していく自己の教師としての半生を、教師になりたての頃の失敗や悔いもふくめて、若い教師たちへの思いもこめながら率直に伝えて下さった。

 宮下さんという一人のすぐれた中学教師の人間的生き様が語られ、それを聴く場にいられたことの幸せを思った。


 会が終わってからは、いつもの酒場交流。五反田に出た。会場で、そして飲み会の席で、真剣に子どもの指導をめぐって悩み問う若い教師たちの声をきいた。ぼくも真剣に考え、答えにならぬ答えを探す。

 成果と型を求められる学校現場の中で、自己の内部をかけめぐるもう一つの声、その声に耳を傾けたとき「わたし」の内部が軋み、痛み、板挟みの感情にさらされること。それなら、「わたし」はどう生きて行けばよいのか。

 

 この問いにどうこたえるか。

 できることは、以下のことか。

 日常の授業や教室での生活の一つ一つの中に、小さなかけがえのない事実や人間的真実が生まれること、生み出すことができること、あるいは見出そうとするとき、子どもたちの真摯な努力は必ず見えてくること、そのことをまずは大切にしてほしい。

 凄い実践をする必要はないのだと思う。

 子どもと生きる日々の中に、キラリと光る宝物はある。その事実を丁寧に拾い伝えることで学級は人間的に変わっていく。子ども自身気づかない小さな小さな光に教師が驚き、その豊かな価値を伝え続けること、それが出発点のような気がする。このことが無視され切り捨てられる時代と学校現場だからだ。