いくつかの仕事を、とりあえずやり終えたので、今日は『かぐや姫の物語』の映画を観に行くことにした。

 佐藤博さんが雑誌『教育』2月号にすてきな映画評を書いている。霜村さんのブログにも紹介されていた。

 

 渋谷、有楽町、川崎の映画館をチェックすると、川崎チネチッタが一日数回上映している。

 「12時5分始まりの回がある。よし、これにしよう」

 川崎行きの電車に乗り、しばらく小説を読んでいると20分ほどで着いた。


 1階のチケット売り場で券を買い、エスカレーターで2階に上る。軽食をとっておこうとホットドックとコーヒーを注文した。店内のお兄さんが丁寧に種類を聞いて作ってくれた。

 小さな丸いテーブルの前でホットドックを食べ、コーヒーは飲みかけのまま上映会場に入る。ここは、注意されないんだ。


 映画は、よかった。ぼくの心を波立たせたのは、描かれている竹林や野山の風景、そこに生きる小さな動物たちや翁と媼の暮らし。そして、かぐや姫の小さな赤ちゃんのときの姿から、少しずつ成長して、山の子どもたちと野山を遊び回る姿…。

 かぐや姫が、何げない暮らしの中で夢中のときをすごしながら、ふいにグンと成長するところが何とも素敵だった。少女や少年が思わず知らないうちに新しい自分と出会えるような瞬間を刻んでいる!

 ずっとずっとこの場面を見続けたい思いがした。

 考えてみると、ここに描かれた野山の風景は、みんなぼくの心の風景と同じなのだ。

 孟宗竹の緩やかな揺れと笹の触れ合う音。ぼくも風に揺れて空を舞った。

 裸の木々の枝に、何羽もの小鳥たちが集い、生を歌い羽ばたく姿!


 内側から立ち上がる思いを押しとどめられたかぐや姫が、自分の内部にたまる激しい生への思いを爆発させるところが心ふるわせられる。

 今を生きる子どもと単純に結びつけてはいけないだろうが、思いを聴き取られないまま、あるいは子どもとして“人間らしい生”を刻めないまま育つことを余儀なくされているストレスから「キレる」少年や少女たちの生きる姿とつながるような気もする。

 

 全体を通して、ぼくの心に強く意識されたのは『生きることの素敵さ』とか『生そのものへの賛歌』のようなものだった。


 ただぼくは、かぐや姫を迎えにくる最後の場面の描き方には少し違和感があった。音楽と映像と…。

 おそらくそれは、幼い頃からぼくの中につくられた『かぐや姫の物語』のイメージがあって、それとうまく結びつかなかったのだろうと思うが…。


 映画を観終ってから博さんの映画評を再度読む。素敵な文章による的確な評が続いていたが、中でもぼくは、次の文章がとても気に入った。


≪…姫の激情はあふれ十二単衣を次々に脱ぎ捨て、都から故郷の里山に疾走する。かぐや姫は自由を希求する美しい反抗少女でもあった≫