教育・子育て九条の会のシンポジウムが豊島区民センターであった。

 この会ができたときから会員になっていたが、集会に参加するのは初めて。


 日本国憲法の話を最初に学んだのは小学校の6年生のとき。社会科の授業だったと思う。

 教科書には忘れられない絵が描かれていた。

 3人の子どもが(人間が)両手を広げ、朝日にむかって両手を広げている。

その輝く朝日の中に『憲法』という文字―。

 そして、その3名の影の中に、憲法のもっとも重要な特徴を表した3つの言葉が書かれていた。

 平和主義、民主主義、主権在民…と。


 いま手元にある昭和22年(1947年)文部省発行の『新しい憲法のはなし』を開くと5ページにその絵がある。

 そこには平和主義は国際平和主義と書かれているが…。

 6年生の担任についてぼくはよい思い出はないが、この授業を教える時、彼ははっきりと言った。

 「もう日本は戦争はしない!戦力も武器も戦争にかかわるものはみんな放棄するんだからね。君たちはそういう時代にいきているんだ」と。

 ぼくは、その言葉を聞いたとき、命が輝き未来に羽ばたくような、そして日本は誰からも憧れる国になるんだと子ども心に思った。


 大学時代、生き方を模索している頃『きけわだつみのこえ』や『はるかなる山河に』という戦没学生の手記を読んだ。

 何か、命をいただいて代わりに生かされているような気持ちになった。

 友だちが深夜下宿を訪ねて来てぼくに心の悩みを語った。

「生きている意味がわからない。だめなんだ俺は、いまどうしていいか…」

 ぼくは、未熟な言い方だったが「生きたくても生きられない人たちがいた。ぼくらはそういう時代には今生きてはいない。だから、命を大切にしようよ」と話した。


 同じ大学時代に戦前の教育的思想の基盤となった『教育に関する勅語』を読んだ。

 その中に次のような文章をみつけてぼくは思った。

 教師になった日、二度とこうした世界観で子どもに進んで命を捨てることを教えてはならない、そして、子どもを戦争に送り出してはいけないと思った。


 ≪一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし≫


 子どもたち一人一人の命や人権を大切にして、彼らの生が未来に向かって輝き続けるように「教師としてできる限りのことをすること」―。だから、育ちゆく一人一人の生はかけがえのないものであり、他の誰からも侵害されてはならず、誰かのために何かのために犠牲になることは絶対にあってはならない―そう思った。

 『教育勅語』の思想は、一人の人間の命と人権を尊重する思想とは真っ向から対立する。どんなに愛した人間であっても、かけがえのない命のあり方を自らの意思で決定できず、命を差し出せと命令する国家のあり方の教育における規定。だから、国会の衆参両議院において排除失効となった。


 この子どもの人権や命の輝きを保障する思想は、いまわたしたちの手にある憲法とわかちがたくつながっている。

 この憲法を大切に守り育てたいと強く思う。