テレビで宮崎駿監督の公式引退会見をみた。

 勿論、全部見たわけではないが…。そこには当然、今をどう生きるかという彼の生き方や思想も反映しているわけで、とても興味深かった。


 会見の要旨は一枚の文書にまとめられていて、それは翌日の新聞で知ることになる。

 彼の受け答えは、最初、短く簡単に…ある意味では予断を許さないきっぱりとした答えとも言える内容だった。その後、幾人かのマスコミ関係者の質問に答えるなかで、こころに響くものがあった。


 質問に対する答えのなかで、『ああ、そうだった。彼はいつもこの思いを大切にしていたんだ』―そんなふうにぼくが思ったのは、以下の言葉だ。


 「子どもたちに今言葉を送るとしたら、どんなメッセージを送りますか」に答えて彼は言った。

 ≪この世は生きるに値するという思いを伝えたかったし、それは今でも変わらない≫


 彼の出発が児童文学を愛することから始まったということから、これは「そうだろうな」と思った。

 これと同じ言葉は、児童文学者の今江祥智氏やゲド戦記の訳者、清水真砂子氏も語られている。


 今回、ぼくは、もう一つ、次の言葉に心が震え考えさせられた。作品づくりについて問われたときのこと。

 ≪メッセージを込めようと思っては作れない。自分の意識ではつかまえられないものを描いている。つかまえられるようなものはロクなものではない≫


 この言葉は新聞報道で知ったのだが、ぼくの頭に二つのことが浮かんだ。


①授業について。…ぼくは、大切な価値を含んだ道筋となる指導案は必要だと思っている。しかし、具体的な子どもとの学びをつくっていると、教師の思惑を超えて、別の次元に学びが膨らんでいく。ここに喜びや感動があると思っている。

 それが学びの新たな時空の瞬間を創り出すのだが、これが好きだ。このとき、一人の個性あふれる人間教師と、かけがえのない、また二つとない教室の具体的な子どもたちとで創り出す学びが生まれている。授業が子どもたちにとって、また教師にとって深い意味や価値を持つときは、およそこうしたことが起きている。

②灰谷健次郎氏の言葉を思い出した。

 彼の文学とは別に、子どもについて書かれたものには教えられることがある。

例えば次の言葉。

 『こうすれば、こう教えれば、子どもはこう変わるという範囲内のことは、子どもの可能性とは言わない。…ほんとうの子どもの可能性とは、誰にも予測できないほど大きなものだ』

 『こちらが子どもに変えられてしまう場合、それまで積み上げてきたもののすべてが粉砕されてしまうほど、圧倒的は迫力と独創性が子どもの側にあるのだ』

 こんなふうに記している。


 宮崎駿氏の創作活動の中に、何かメッセージ性を込めて起承転結で物語を創作したとき、(例えば“いじめはいけない”“差別は許されない”…)、それは何か嘘くさくなるし、真実を伝えきれていない作品になってしまうというような思いが隠されているのではないか。もっと人間の内部からあふれ出すような格闘、葛藤を経て作品は命が吹き込まれると…。