宮崎駿の子ども観

 宮崎駿著、岩波新書『本へのとびら』の続き。子ども観でいいなあと思ったところ―。

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『千と千尋の神隠し』を作ったとき、一部の批評家に言われたという。千尋が最初にトンネルに入ったときと出てきたときとまったく同じではないか…、何も成長していないではないかと。

 宮崎駿は言う。

『時が来るまでは、子どもはちゃんと親の庇護のなかにいなきゃいけない。あわてて成長する必要はないんですよ。それはただの親への不信に過ぎない。それよりは依存しているほうがいい。

 不信と依存は同時にあるものですけれど、依存を認めなければ、子どもの世界を理解したことにはならないんです。子どもが成長して自立していくのがいちばん尊い、なんていうのは、それは違う』

『子どもというのはそうではない。子どもは賢くもなるけど、何度もばかをやる。繰り返しばかをやる権利を子どもは持っている。幼児の世界はとくにそうですよね』

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 ぼくも同じような考えをしていた。ゆっくりと時間をかけ、試行錯誤や過ちを繰り返しながら、とことん納得して子どもは育っていけばいい。「もうこれでこの時期のぼくは(わたしは)充分だ」と言えるように。子どもが『何かができること』が急がせられる姿を本物の成長とは違ったものだと思っていたから、ぼくはこうした考えがすごく納得できる。

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 午後の4時から教科研の事務所で講座編集会議があった。神楽坂に30分前に着いた。ちょっと早すぎる。坂道を下り散歩しながら左に折れて築地にある事務所をさがした。ところが道に迷ってしまった。坂道を登ったり降りたり…。とうとう道行く人に聞いてやっと赤城神社に出る。結構歩いたからよしとするか。