『いじめ』と子どもたち

 現代の若者や子どもたちの多くが、『いじめ』の苦しみや痛みと出会い、心の傷、振り返りたくないような過去の思い出を抱えている。それは、加害であったり被害であったり、その両者であったり、振り返ると体が震えるような体験を抱えている。その当時は、何げなく過ごした加害の事実に対しても、いま震えるような自責の思いを抱えている。そっと心の奥底にしまいこんでいたものも、ふとしたときにフラッシュバックのように、痛みや癒えぬ傷となって蘇ってくるようだ。

 昨年も今年も、臨床教育学や生活指導論で『いじめ問題』を取り上げた。学生たちの感想の多くに、「いろいろな苦しみと痛みがよみがえってきました。講義を聞くのが辛かったです」と書かれている。

 おそらく日本全国の若者たちが、子どもたちが、その状況は違っても、そうした過去の体験を抱えているように思う。

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 1980年の半ば頃から日本の『いじめ問題』の深刻さが社会問題化してきた。『いじめ』によって自らの命を絶つ子が生まれてしまったのだ。

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「私は小学生時代から中学生時代まで、つらいいじめにあってきました。周りは賢い子たちでそのやり方はとても巧妙でした。…。学校で『いじめ調査』があるでしょ。誰が本当のことを書きますか。いじめられている本人は、悲しくて辛くて、『いじめられたことがありますか…。はい、いいえ』、あんな調査があれば『いいえ』と回答するに決まっているじゃないですか。調査のたびにこんなバカバカしい調査をして…、と悔しかったです」

 そんな感想も寄せられている。

 現代の子どもたちが『いじめ』によって自己のアイデンティティを支え、力の関係性を維持している。あるいは自分自身気づかぬうちに抱え込むストレスのはけ口として『いじめ』に関わり続ける。

 そして、負のスパイラルに落ち込むと、非人間的な行為をより強く選択したものが、仲間の中で生き残りヒーローとなっていく。それは、はどめのきかない悪魔の世界へと子どもたちを引き込みながら行き着くところまで行ってしまう。そうした『現代のいじめ構造』を、何とかしてストップさせていかなければならないと思う。

これは、教室と学校と部活やスポーツ少年団などの様々な子どもたちが集まる世界で生まれていることだが、その子どもたちを危機に陥れている最大のものは、子どもたちから子ども世界を取り上げ、孤立化させ、トラブルや逸脱をふくみながら、子どもが多様な価値を刻み、人間としての器を広げていく可能性を切り捨ててきたことによるのではないか。人間の未来に対する非人間的状況も、あらゆる分野で深刻化し、子どもたちを危機のなかに投げ込んでいる。

『いじめ』を防ぎ、全力でその解決に努めることは、今すぐなさねばならないことだが、これほど子どもたちの心と体の成長発達を歪め傷つける日本社会のあり方そのものと、教育のあり方を根本的に変えなければ、真の解決にはいたらないのではないか。