教育の原点をみる

 木曜日の5限は、学校教育実践演習。特別支援学級を20年担当する友人のW先生においでいただいてお話を聞いた。

 心に沁みるようなお話だった。暴言を吐き暴れることでしか生きる表現のないY君が特別支援学級にやってくる。W先生も、前の学校から転任し4月からこの学校にやってきた。この出会いが凄まじい。教室の仲間たちは、協力し合うことや仲間のよさを認め合い、教室を自分たちが快く生きる場所とはみていない。

 Y君をほっておいたら学級が成立しなくなる。教室の仲間たちが怖くて震えて、いっそう関係を悪くし、悲しみや傷を心に抱えることになる。W先生の取り組みが始まる。

 丁寧な報告だ。人が育つとはこういうことか、と深く教えられる。

まさに教育の原点だ。W先生はY君を恫喝したり、体を拘束して言うことを利かせる強圧的な「指導」をするのではない。

 よく、こんな「指導」をされる方がいる。

「この子たちは世の中を迷惑かけずに生きていかねばならないんだから、『いけないことはいけない』と教えるべきなのよ」

 そう言って、無理やりに態度を強制していくやり方。

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 しかし、W先生の対応はまるで違う。じっと彼の世界を見つめ、彼の世界に仲間入りするのだ。そして人間として生きる素敵な要求を持つ一人の仲間、育ち行く子どもとしてみつめ語りかけていく。

 Y君のもっとも得意な世界は『絵』だった。W先生は、彼の絵の世界に共感し、その変化を丁寧に見つめていく。その絵(あたかも落書きのように見える)をみんなに紹介してくれた。小さな小さな変化の繰り返し。絵の中に大好きな車が登場し、少しずつ、文字が刻まれていく。その文字はついにある日、『くじらぐも』の感想文にまでなる。文字など見向きもせず、暴言暴力で当たりに苛立ちをぶつけていた少年が、まったく書くことのできなかった少年が、W先生に聴き取られ、暖かな対応を得て、大好きな絵をたっぷりと描き続ける中で、文字の表現をついに獲得していく姿勢は感動的だ。ヘレンケラーの文字獲得の物語を思い出してしまう。

 教室と言う場だけれど、そこにはY君の願いと生活があり、その彼の物語が豊かに膨らむ中でW先生の『彼を学びの世界に受け止めてあげよう』『暴言や暴力をつかわなくてもここでは幸福にしていらられる』という思いを伝え、同時に彼の物語のなかに、学びの価値を位置づけていく。

 これはY君という少年の小さな小さな物語だ。だが、ここに生まれている事実は、教育と言うものの本物の凄さというものを伝えている大きな大きな実践だ。