学びをつくる会
昨夜は、池袋で『学びをつくる会』の学習会があった。大月から特急『かいじ』で新宿に出た。7時を過ぎた。池袋に急ぐ。
会場に着くとちょうど本山さんの話が終わって、休憩時間になっていた。なつかしいSさんの顔がそこにあった。
「やあ、Sさん」「お久しぶりです」
「春に、3人目が生まれました」「おめでとう。U君から聞いていたよ」「子育て大変です」
言葉が真に迫っていたけれど幸せがあふれていた。うれしい。
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もう一つびっくり。ゼミの3年のHさんがいた。
「よく来たね!」「先生、試合はどうでしたか」「面白かったよ」
今日は、東京の友人宅に泊まるらしい。
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本山さんのお話は、今回の『東北関東大震災』をとりあげ中学生たちと学びあった報告だ。生徒たちの感想文も配られて読む。
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いま子どもたちと学びあうことの意味を考える。
ぼくらは、テレビや新聞記事、本やパソコンなどを通して今回の大震災と原発の様々な状況と接している。心の中を傷ついた風が吹きぬけていく。考えていないようで、見てはいないようで、まるで忘れたているかのように、あたかもふつうの暮らしが続いているかのように生きている。
しかし…。と思う。一旦誰かと語りだせば、誰もが隠された痛みの感覚を抱えていることに気がつく。大切なことをどこかにおきやってはいけないと考えていたはずなのだ。
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ぼくは、思う。具体的な何かを使って、それは一枚の写真でもいい、子どもの小さな声でもいい、被災地の方の搾り出すようなつぶやき一つでもいい、そのことをもとに語りだすなら、必ず子どもたちは自分の中にある、隠しておいた言葉を紡ぎだしはじめる。
子どもたちと今起きている震災と原発の危機を語り合う必要があるのだ。友だちや先生と言葉をつなぎあうとき、自己の内部にあった『形のないひとまとまりの感情』が仲間の声と重なり合って、確かな声や言葉になる、生きることの声となって聞こえてくるのだと。
なぜなら、ぼくらは今、体験したことのない危機の前にあり、生かされ、新たな旅立ちの歴史を生きる転換点に立っているからだ。いままでの『生』が成り立たない歴史的転機を迎え、子どもと共に『これからどう生きるか』『何を学んでいくか』、あるいは本山さんが提議するように『どういう社会をつくっていくのか』が問われている。一人ひとりが語り合うことを通しながら、生きることの意味を問う必要があるのだ。誰かとこのことを語り合わねば、心の奥深くの深層に人間として大切なことを閉じ込めてしまうことになるだろう。