Iさんから学ぶ

 S県の若い友人、Iさんからメールが届いた。『学級崩壊』の本についての感想が書かれている。教室の日常と教師として生きる現在を重ねて読んで下さった。

本を読んで「子どもへの見方や対応が柔らかくなった」そんな内容が書かれていてうれしかった。

以下、少しだけ彼の文章を紹介させていただく。若い仲間の教師のみなさんに是非読んでいただきたい。

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…略。いきなりですが、この本を読んでから今日まで子どもたちに「怒る」ことが劇的に少なくなりました。怒りにつながる苛立ちが劇的に少なくなったからです。自分自身の弱点としてずっと感じていた「すぐに苛立つ」ということには二つの原因があったことが自覚できました。そのうちの一つは「きちんとさせる」ことにこだわりたくないと思っていながら、時間がない、準備ができていない、周りの圧力が強い時に起こる苛立ちです。そして、子どもを力ずくできちんとさせようとして「怒る」のです。これは、それなりに自覚的であったのですが、もう一つの苛立ちに無自覚でした。「年配教師が困難に直面しやすいのはなぜか」の項で書かれていたことが無自覚だった苛立ちを自覚させてくれました。(注、Iさんは年配教師ではありません。30代の教師です…)

―「そんなのかんけえねぇ」とか「どんだけぇ」などと発言したとしよう。子どもはテレビの一場面などを思い出し悪気などなく思わずつぶやいたのかもしれない。しかし、年配の教師は、その言葉が自分の授業を否定する、あるいは笑いものにするような子どもの声として聞こえてくる。

 ここを読んで、腑に落ちる、納得する、すっと入る…どんな言葉でも足りないくらい、「あぁそうか…」とピタッときたのです。自分がいつも子どもに対して怒ってしまう場面というのは8割がたこの場面なのです。「死ね」「ハゲ」「デブ」など、明らかな攻撃性を伴う言葉には「子ども理解のスイッチ」が入り、「お、どないしたやろ」と思い「理解・分析モード」で子どもに関わるのですが、「テレビ言葉」や「よくわからないフレーズ」が飛び交うときや、授業の流れに関係なく発せられる言葉には「苛立ち・怒りスイッチ」が入り、つい高圧的な言葉や表情で子どもに迫ってしまうのです。

 ここを読んでから、子どもたちが例えばいきなり「ナバッ」と叫んでいても「悪意」と感じなくなったので、「なんやねん、いきなりびっくりするやないか」と返せるようになりました。授業中に一番後ろの席から、K君が「A君あのなぁ、モンハンの…」と一番前の席のA君に話しかけても「K君、しゃべりたかったら3分あげるから廊下でしゃべっといで。だいじょうぶ。クラスから追い出すとちゃう。しゃべりたい話が終わったら、おかえりってニッコリ迎えてあげるからいいよ。しゃべっといで」と言えるようになったのです。そうこうしていると、結果的には子どもたちに対して「苛立たなくなり、怒らなくなる」ようになったのです。…略。

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 この手紙にぼくはまた教えられました。すごい内容です。この文章中のK君の生きる姿について、このブログを読まれる方々はかなり想像がつくと思いますが、もしも「こんなふうに甘やかしておいていいのか」と読まれた方がいらっしゃるなら、少しだけ想像してほしいです。Iさんの教えているK君は、おそらく学校と言う規範とルールの固まりの中で生きるとき、その規範やルールによって、本当の意味の快さを味わってはこなかったのではないでしょうか。押し付けられることでいやなことばかりだった。少しも自分の幸福とつながらない。だから自分の感情のコントロールがきかないのです。家庭や地域、学校において、どこもみんな…命令はするけれど、生き方を支えてはくれなかった…。

 Iさんの対応を通しながら、K君は、学校で自己の感情と折り合いをつけ、学ぶという意味を体に少しずつ体に刻んでいるように思います。その過程にあるのです。今日の子どもの中には、こうした普通の教師では予想できないような生き方を余儀なくされている少年たちもいるということ。そんな困難を背負う子どもたちと彼は真正面から付き合っているのです。人間を育てようと…。そんな姿が伝わってきました。