子どもの可能性をどこに見るか

 出版された『学級崩壊』の本を手にしてくれた友人たちからメールが入る。

「一気に読みました」と言う声の一方で、次のような声も聞こえてくる。

「重いテーマを扱っていて本を開くのが少し躊躇われます」

「身につまされて…」

辛さを伴うような率直な声や感想も寄せられる。正直な本当の気持ちを綴ってくれてうれしい。

 この本の名前を見ただけで、困難な子どもたちと出会った日々を思い出し、息苦しさを感じてしまうのかもしれない。

 ぼくなどは、ずっと危機と向き合うように子どもと生きてきた。そんな日々が、何を意味していたのか、ぼくの教師人生にとってどうであったのか、子どもや学校、教師たちや教育の何が問われていたのかを、繰り返し繰り返し、幾度も自分に問いかけながら今も生きている。明確な答えが、実はなかなか出てこないのだ。

 それでも、困難な日々のありようを、一人ですべてを背負うことはない…と思う。だから、今困難を抱える仲間たちがいたら、自分を追いつめるような眼差しをもってほしくなくて、この本をそっと手にして読み、気持ちを楽にしてほしいとおもう。

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 ゼミの中で、学生たちが関わる子どもたちのことがよく話される。授業中、教室から逃げ出してしまう子、追いかけると「手を放してよ!」と強く反抗されたり、水溜りにシャツのまま座り込んで、どろんこになったりしてしまう子のこと。心をつなげようと思うのに、無視をされたり、心無い言葉をぶつけられたり…。あるいは、かかわった学校で、まったく教師の声を無視しおしゃべり続ける子どもたちのこと…。どんな支援をしてよいのか悩んでしまうと…。

 しかし、ゼミの中で、その子自身の内面が動き出すことこそ大切ではないか、その子の声が生まれたらそれはすごいことだよ…と、そんなことを話していたら、YさんやGさんの顔がパッと輝いて素敵な事実を語ってくれた。

「A子さんを追いかけていたら、ふと私の手の爪を見て『先生の爪、短いんだね。大人ならもっと長くしていいんだよ』って話してくれました」

「ねえ、それって凄いことじゃない。『○○をしなさい』とか『早くやろうね』と言ったときは、少しも言うことを聞いてくれない。要求の枠組みが、自分の思いとはぶつかって苛立つのだろうね。でも、A子さんが自分の言葉で、あなたに爪のことを話しかけてきてくれたでしょ。それはその子の内側からあふれ出したその子自身の言葉だよ。その子があなたに向かって語りかけてきたんだ。その素敵なメッセージを受け止めてあげたいね」

「休日にお祭りがありました。私の担当するクラスの中学生がいて、『あら、T君じゃない』と声をかけたんです。そしたら彼が、振り返って『知らない人に声をかけられたら着いて行っちゃいけないんですよ』と言われちゃいました。その受け答えの面白さに笑っちゃいました」

「いいなあ。教室で突っ張っているように見えたって、こんな楽しい会話を聞かせてくれるんだから。きっとその子もうれしかったと思うよ」と。