第2回教科研シンポジウム

 1月23日、日曜日、明治大学の会議室で教科研第2回シンポジウムが開かれた。テーマは、『教師と学校を追いつめるものは何か』~希望と再生への回路を求めて~。

 会場にはたくさんの人が集まり席が足りないくらいだった。

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 新採教師の自殺事件をめぐる報道ステーションのビデオを見た後、久冨さん、石垣さん、大河さん、渡辺さんが問題提起をした。

石垣さんや大河さんの現場のお話を聞いていると、闇の底に沈んでいくような胸の苦しさを感じる。それは何だろう。

第一は、語られる子どもたちがとても人生に傷ついていることだ。生まれてわずか10年に満たないというのに、人生を捨てたかと思うような激しく攻撃的な言動を取る。第二は、彼らと共に生きる周りの教師たちが、とても傷ついていて攻撃的な眼差しや生き方を周囲に迫ることだ。この中で生きていくことは並大抵のことではないなと思う。

ここでは、新自由主義的な教育が強く肯定され、教師もまた攻撃的冷笑的な生き方を選択しないと生き残れないような空気が漂っている。石垣さんも大河さんも、柔らかで瑞々しく人間的な自分の生き方を貫き通そうとする。だから深く傷つく。

司会の佐藤博さんが言った。

「お話されていることは、とても厳しい内容ですが、お二人はそれを笑いのなかで対象化し語って下さる。素敵な語りの中で、希望が見えたり癒されたりしまうのですが、こうした語りが出来ない人たちもきっとたくさんいると思うのですね。傷つき口を閉ざしている仲間たちが…」

 ああ、この指摘は鋭いなと思った。同時に、石垣さんや大河さんの中には、ここに集まる私たちが、共に心の支えにしている人間的な教育を進めるのだという、揺るぎのない希望につながる羅針盤があり、揺れる心や痛みを支え続けているのだろうなと思った。

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 わたしが、この日発言したことを少しメモ風に記録しておく。

(1)自ら命を絶った若い教師たちが「力がなかった」のではないこと。あの輝く瞳は今教師を目指す若者たちの誰もに共通するものだ。その彼女(彼)たちの希望を奪うことは許されない。

(2)『子ども理解のカンファレンス』と困難を抱える教師の辛さや痛みを理解しないような『対策会議』や『教育相談』的な集まりとは同質においてはいけない。後者は教師を追いつめる。互いに尊敬しあい、平等が貫かれ、一人の教師に責任が押し付けられることのない安心と共感の生まれる場が求められる。そこでは、それぞれの教師の『個性的な理解』と『共通理解』も生まれていくということ。

(3)若い教師たちの中には今と言う時代を『勝ち抜いてきた』眼差しがあり「強さ」の論理がある―、という見方に少し疑義がある。

 若者たちは表側に見せる顔と違って、もっと傷つきやすい自己を抱えながら生きているのではないか。「強さ」の論理を主張しているようにみえるものもその背後の内実は違うのではないか。

 彼らは現実の子どもたちと格闘し、教育現場の息苦しさなどの中で傷つき教職を去るものもいるが、一方で子どもたちの攻撃性などに傷つけられながらも無我夢中で生きる日々から、子どもの苦悩を読み取り希望をきりひらいているようにも見える。そこに現代の若者の優れた可能性があるように見える。

 教科研で報告してくれた若者たちの多くは、傷つき格闘した日々とその苦悩を、心ある人たちに聴き取られながら自分の教師としての生きる形を創り出し、誇りを持ちこれでよいのだと再生していっているのではないか。

(4)緩やかな広場の存在が求められる。硬直した開かれない『砦』ではなく多様な他者が行き交い自由に出入りできるような『ゆるやかな広場』の存在である。そこに子どもを育てるものや教師たちが安心してかかわることができたらいい。取っ掛かりのないような若者教師もまたつながりあえる可能性はたくさんある。

(5)教師は子どもを担任し、授業を成立させ学級の生活を成り立たせて初めてその自分を肯定し納得できる存在なのだ。ここに他者の介在することのできない基本的なアイデンティティの問題がある。教師を取り巻く条件を改善することは決定的に大事なことだが、同時にそれぞれの教師の物語、人生の物語とつながるような生き方の模索と展開を支えていく必要もあるのではないか。