リスペクト

 マーガレット先生は、SFUで取り組まれている教師養成プログラムについて私たちに語って下さったのだが、そのお話の中に『リスペクト』という言葉が幾度か繰り返されて、それが私の心をとらえた。

「子どもへのリスペクト、教師へのリスペクト、保護者へのリスペクト…、そうしたものが私たちの取り組みには前提となっています」

 『リスペクト=尊敬』いい言葉だなと思った。

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 私たちは、バンクーバーにある、困難な地域の小学校を訪問したが、そこで、この言葉を具体的に教えてもらうような出来事とであった。

 カナダは言語も異なる多様な民族が集まり一つの国家を作っている。教室はその一つの縮図ともいえる。英語を第二言語とする子どもたちが、一つの教室に半数以上もいるとのこと。学びが成立する前に、共に過ごす、共に生きるということが常に問われる状況にある。

 まだ若い女性校長に案内され、いくつかの教室を訪問した後小さな校長室で懇談した。

 そこで私は二つの質問をした。

「言語の違う多様な子どもたちが同じ教室で過ごすこと、そこには伝えきれない思いを抱えて様々な困難が生じると思うが、子どもたちのケアをどのようにし、共に生きる教室を実現しているか。思いを聴き取られず悲しみを抱えたり暴力的な表現を起こしたりする子もいるのではないか。

また、知識をただ受け渡す学びではなく、深くつながるような学び、物語の生まれるような学びの展開を考えていると聞いたが、それはどのように進められているのか。40もの国から集まる子どもたちの一人ひとりの子どもの納得を生み出すような学びを進めるのは大変なことだろう」と。

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 すると彼女は次のように語った。

「ご指摘のようにトラブルは日々起こります。ですから私たちは英語を話せない子どもたちに、第一に自分の名前を言えること、第二に、悲しみや怒り、怒っている気持ちを伝える言葉を教えます。それから第三に、学びの言葉へとつなげていきます」

「それは素敵ですね。学ぶ以前に、子どもたちが教室で生きる切実な声を、言葉にしてはっきりと伝えられるようにしてあげられること、それが大切にされ聴き取られたら、攻撃的になったり自暴自棄になったりしませんものね」

 ここに子ども一人ひとりの存在を丁寧にリスペクトして受け止める姿勢がある。

キャサリン校長は一人のアフガニスタンからやってきた少年の例を話された。彼は、一切英語を解さず、初めの頃やっと覚えた英語で、教室を脱出した後、事務室の電話を取って警察に電話した。「音楽の先生がぼくをいじめる、助けて」と。それからベランダに飛び出して二階から飛び降りようとした。その子に、私たちは寄り添って話し合いをした。サッカーが好きだとわかって、まずサッカーのパスの言葉を教えていった。ボールを奪い合うことからパスが生まれていって、そうしたことから彼は大きく変わっていった。

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私は、さらに質問した。

「そうした子ども、困難な問題を背負う子どもを担任するとき、担当する教師は、時には攻撃され心を傷つけられたり、教室がうまくいかず問題が山積して責任を感じ、心を病むことが起こるのではないか」と。

 すると校長は即座に答えた。

「それは、私の仕事です!」

 そうした状況に担任一人を追い込んだり傷つけてしまうことを避けるのが校長の仕事だ…と言うのだ。

「問題を一人で背負うことはないのか。日本の教師たちは、そうした子を抱えて教室がうまくいかず校長から責任を問われることがある。傷ついて病むことや、命を絶つ若い教師もいる」

「何と言うことだ。それは、こちらではありえない。それぞれの教師が自己の課題を持ち努力しなければならないこともある。しかし、教室で生じた問題は、一人の責任に負わせるものではなく、問題の解決のためにみんなで知恵を出し合うのだ」

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 考えてみれば当然のことだ。一人で責任を負わされ自ら命を絶つように教師を追い込む国は、あきらかに間違っている。教師が、子どもが、支えられ、リスペクトされていないのだ。