かつて私も

 先日、『クレスコ』の若い教師からの質問について私が回答したことについて触れた。このブログに目を留めてくれたココさんから「かつて私も…」というコメントをいただいた。同じように苦しむ若い教師の方がいらっしゃるのではないかと思い、紹介させていただく。

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『かつて私も若い先生だった頃、同じような経験をしました。そのうち、毎週の学年会で(5クラス)学年主任から真っ赤になるほど検閲・指導をうけました。今となってはパワハラというものだったかも…、と思います。ほかにもいろいろあって、仕事を何度か辞めようと思いました。でも家族の支えや応援して下さる先生のおかげで、今まで何とかやってこれました』

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 ココさんの受けた悔しさや心の傷に胸が痛みます。おそらくこうした学年では、毎朝顔を合わせたり、どこかの教室で学年会をしたりするとき、その時間と場所が、口には出さないけれど、はやく過ぎていってほしいと思ったのではないでしょうか。

『形式的な民主主義』を旗印にして、よい意味での背伸びや逸脱を許さず、低く楽なところに実践を設定しておく、「学年のため」「子どものため」「あなたのため」という『正義の言葉』を使って…。とてもつらいことです。身の縮まる思いがしたでしょう。

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子どもと共に過ごしているときは心が伸びやかなのに、学年で集まると「合わせること」が優先されて心の扉を開けない。心の底からやりたかった実践、子どもたちへの思いを具体化してあげられない。教師としての本当の自分が出せない、心を閉ざしていなければならない…。学級だよりを出そうとすると真っ赤な検閲があったり、発行を差し止められたりする。これってやっぱり変です。

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 でも、ココさんを支えてくれたように必ず素敵な仲間がいます。また、教師の個性や学級の個性の違いを尊重しながら、ゆるやかにのびやかに実践ができる雰囲気を作ってくれる先輩教師や学年主任もいるでしょう。それぞれの教師が、互いに学びあい納得し合えるなら勿論「合わせる」こともあっていいのです。

 こうした問題では、「合わせる」ことを正当化するために、よく保護者の信頼や安心のために…という言葉も使われます。しかしその場合、これまでの踏襲で実践が低くに流れやすい。ですから、それを乗り越えるような高い質の合意づくりを進めたり、「私たちの学年は先生たちが支えあって仲がいいね。でも、教育はいろいろ個性的で面白くて素敵ね」そんな保護者の声が生まれたりするような実践が展開されるといい…。