勇気づけられること

 母の家を訪れ、新幹線で帰ってきた。ブログを見ると、見知らぬ方からいくつかコメントが寄せられていた。新年の『春』の詩に対して、勇気づけられました…と。

 私もうれしいし、逆に私が勇気づけられた。コメントに感謝します。苦しい日を体験しない教師には、この苦しさは伝わらないと思っている。校長や副校長になる人は、また指導主事などになる方は、必ず、困難の真っ只中の教室に入り、困難に直面している教師を休ませて上げて、数ヶ月や一年を過ごし、子どもが何を苦しみ、何を教師や学校に求めているかを知ってほしい。そうした方こそ、本物の学校長として、また教育委員会としての人間的な援助や指導ができると思うのだ。

校長室にいて、あるいは時々クラスをのぞき、援助をしているようで、その教室を出たとたん「あのクラスは本当に大変だ、どうなっているんだ」などと話す方にはなってほしくない。担任は、いつでも「あのクラス」などとは言えないのだ。職員室にいても家に帰っても、苦しみや悩みからは逃れられない。援助とは本当に『当事者』となりきれるかにある。私は、ずっとそう思っている。

しかし、いまは、かつてほど一人の教師にだけ責任を負わせることは少なくなってきているとは思うけれど…。

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87歳の母が台所で転んだというので、娘夫婦が田舎の家の中の様々な場所に手すりをつけることを提案してくれた。ゆっくりと歩けるように棚を置いたり、段差やトイレ、風呂場の上がり口、伝い歩きのできる場所に手すりをつけたりした。喜んでくれてうれしかった。

母は、山の中の農家の暗い家の中で、炬燵の前に机を置き、いまも短歌をつくり続けている。『38から(私の父が亡くなってから)、87の今月まで、毎月15首の歌をつくり続けているのよ。常に新しい気持ちで』と語る。誇りと矜持とを認めてあげたいと思った。

夜、新幹線に乗る。雪でダイヤが乱れていた。冷たい風に吹かれてホームで列車の来るのを待つ。9時半帰宅。