咲彩さんからうれしいメール 2024,10,5
ぼくの住む川崎からは遠く離れた南の地で教師をしている咲彩さん(仮名)からうれしいメールが届いた。お手紙を頂くのは1年ぶりかな。
山﨑先生こんにちは。お元気ですか。
報告です。 😊
無事にA県の採用試験に合格しました。
来年からやっと初任研です。
同級生からはだいぶ遅れたけど…、だからこそ感じるところはたくさんあるので、かみしめながら、これからも自分のペースでがんばります。 😊
(※😊ちゃんマークはメールを頂いた時に付けられていたもの。咲彩さんの嬉しい気持ちがそのまま伝わってくるので、ここにも掲載させてもらいました。)
それでぼくはすぐお祝いの言葉を贈った。
おめでとう! よかったね!
近くだったら会ってお祝いできるのに!
また、子どもたちと共に過ごす教室のいろんなエピソード聞かせてね!
楽しみにしています。
連絡してくれてうれしいです。
すると、咲彩さんから再び返信メールが…。
お祝いの言葉ありがとうございます。
4月からとても楽しみです。
山﨑先生のようなあったかい先生になりたいです。
これからもよろしくお願いします。
諦めずに子どもの前に立ち続けた咲彩さんの姿に胸を打たれる
咲彩さんとの出会いは、大学の臨床教育学と生活指導論等の授業であったと思う。講義の後の時間やゼミ室で直接お話する機会はほとんどなかったと思う。
しかし、彼女の友人を通してつながった。ぼくが咲彩さんの住んでいる県へ講演に行った時、わざわざ幾人かの仲間と誘い合わせてその場に来てくれた。
それ以来、ときどき教室の子どもたちの様子をメールで伝えてくれるようになった。そこには、正規採用の教師と何らかわらない子どもと生きる素敵なエピソードが綴られていた。
その咲彩さんが、毎年5月か6月の頃になると、学級担任をしながら「今年も教採試験に挑戦します!」と連絡をくれた。
「頑張っているなあ! こんなに子どもを愛し、豊かな実践を展開している咲彩さんだ。もう試験の不安は取り除いてあげたい。身分に対する何の不安もなく教師の仕事にひたすら挑戦できるようにしてあげたい!」
強くそう思っていた。
その咲彩さんから『合格しました!』の連絡!
本当にうれしかった。やりとげた咲彩さんに拍手を送りたい。
そして、咲彩さんの手紙に書かれた次の文章に、心を打たれた。
《来年からやっと初任研です。
同級生からはだいぶ遅れたけど…、だからこそ感じるところはたくさんあるので、かみしめながら、これからも自分のペースでがんばります。》
『やっと初任研』という言葉の意味の重さ。そうなんだね。『初任研』なしに、あなたはずっとベテラン教師のように学級担任を任され、子どもと授業を進め、学級づくりを展開し、保護者の前に立ち、行事や学校の仕事の一端を担ってきたんだ。それって凄いことだ。
きっと周囲の教員たちも咲彩さんを同じ職場に働く仲間の一人として、頼りにし、共に仕事をすすめてきたと思う。そこは誇りに思ってほしい。
でも、心の片隅にときどきフッと沸きあがる“自らの身分に対する不安の芽”―。これは拭っても拭いきれない感情だっただろうね。
そして、それが今回払拭された。
あなたは続いて書く。『同級生からはだいぶ遅れたけど』と。
ぼくは、すぐに言いたい! 咲彩さんは“何にも遅れていないよ!”って。
上に書いたように、他の仲間と同じように、立派にこれまで子どもたちの学級担任として仕事をやり続けてきたんだ。咲彩先生に担任された子どもたちは、みんな“ぼくらの先生”“私たちの先生”としてあなたを愛おしく自分の人生の一部として取り込んできたんだ。咲彩先生は子どもたちにとって、自分の人生の機微に触れてくれた大切な先生、かけがえのない1年間を共に生きてくれた大好きな先生なんだ。
その後の言葉がいい。『だからこそ感じるところはたくさんあるので、かみしめながら…』と続く一文。咲彩さんは、これまでの自分の経験をこれからの教師人生の新たな力に変えようとしている! そのことがヒシヒシと伝わってくる。
そうだね。あなただからこそ、子どもたちに、仲間の教師たちに、保護者に、そして時には管理職や教委に対し、思わずハッとさせられるような生きた意味を持つ言葉や声が生まれてくるだろうね。そのことを“かみしめながら”生きようとしていることが素敵だし圧倒される。