沖縄旅行 その他旅行のブログ

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2012(平成24年)からの沖縄、北海道、九州、本州の旅

 今週のブンブンジャー第19話は、調調査官が「ブン様~」とお握りを手にため息をついていると超絶空腹の先斗に遭遇するオープニング。七夕当日とあって「職務でしかブン様に会えない・・・」と嘆く調さん。これを現実世界に当てはめると取引先にイケメンが居る、みたいなイメージでしょうか。「職務で」かなりしょっちゅう会ってるじゃん。けど、一緒にランチできるレベルを夢見てるわけですね。で、腹ペコ先斗を調さんが大也の開発室に連れてってブン様が先斗にカレーをご馳走。そのカレーはご飯が箱の車型の形に盛られて、タイヤは茹で卵を輪切りにしたものが嵌ってました。いいじゃん、今度作ってみたい。今まで蓮根や人参を輪切ってみたり、タイヤおにぎりとか言って丸型にしたご飯に海苔巻いたりしてみたけど、茹で玉子だったら栄養も〇だし。さて、今回の苦魔獣(くるまじゅう)はATMでした。これもまた新札発行直後でタイムリーだったなー。DAIGO語でATM連発には笑った~。過去の天の川グランプリレースでの敗因を思い出し、悔やむブンブン。そんなの終わったレースじゃないか、と何でもないようなことのように言うビュンディー。なんかわかる気がする。悔やむのも、終わったレースは忘れるのも、どっちの態度も実際にありそうで、チャレンジングな道を通ろうか急がば廻れで避けて行こうか、どっち行こうかラリーとかで迷う時がありそうだし、本当にこんな人達居そうだと思いました。ATMの「お金の重み、思い知れ!」お金持ちほど重みがのしかかる技になっていたのでした。現金の流通が少なくなったらATMってこれからどうなるのかな。現金が重いからイヤっていう人、今も居るしね。なんかそれを思ったらATMがちょっと可哀想な気が。本当に「お金の重み、重い知れ!」って叫ぶかも。お金の重み、それを逆手に取っての大也の攻撃、それから過去の後悔を振り切ったブンブン。めでたしめでたしでとりあえずは良かったけど。誰かの叫び声が「ギャーソリン」になって、敵のエネルギーになってしまう。そんな誰かの叫び声を受け止め聞き届けるのが届け屋の仕事。それにはお金が要るので大也は大金持ち。一番のお金の使い途はブンブンの望みのためにブンブンジャー(レーシングチーム)を運営すること。そんな仕組みという解釈もできるのかな。昔のヒーローは、とにかく敵を倒す人、だったんだけど、今もそれはありながら、時代も価値観も変わってそれにつれて変わって来ている部分があると思います。昔はヒーローは何をして稼いでいるかわからなくて、お金は無関係な力で戦っていたイメージだったけど、今はお金じゃないよ、でもお金も要るよね、って感じじゃないでしょうか。むかーしの一億総中流社会イメージから変わって来ていることからかなとも思います。

 CMがタイーヤマルゼンのブンブンジャー・バージョンになっていて面白かったです。来週もあるかな。

 本の山を何とかしなければと思っています。家にある本はどれも重い本ばかりです。重い本とは、重量が重い本ですが(当たり前)大体は内容も重いものです。殆どが装丁がしっかりした専門書や全集です。

 どうして重い本ばかりになったかと言うと、軽い本は多く図書館で借りて読んで返却したからです。貸出期間中に読み切れなかった本、今後も読みたい本を改めて購入、または最初から図書館で借りる気がなかった本を購入したのです。そうした経緯の本は大体重かったのです。で、積ん読になりました。決して重い本を読んで居た訳ではなく、重い本を読まなかったから重い本だらけになったのです。って、ややこしい。で、重い本を読むためには、気力体力が必要です。しっかりした机の上に拡げ、両端を手で押さえて置かないと、勝手に閉じてしまいます。読まれることを拒否しているは言い過ぎかもだけど、覚悟を求めているかのようで、机の前に座って読むとなると自然と姿勢を正す感じになるし、この読書はかなり勉強に近くなります。こんな改まった姿勢だと気軽に読む雰囲気じゃなく、なんか気重です。出来たら重い本をその重さに抗して、寝っ転がって読みたいものです。と、思ったところで学生時代を思い出すと、当時は結構重い本を読んでいたな、と。読まなきゃいけなかったからだけど。そこには読書器という味方もあったのでした。読書器とはどういうものかというと、木の幹から出た枝のような棒の先に本を括り付けて拡げて固定する仕組みです。固定が完了したところで木の幹の根元に当たる辺りを枕に寝っ転がると目の先に拡げた本がある位置関係になるという優れもの。昔は結構売っていたものだけど最近見ませんね。それだけ紙の本離れが進んでいるんでしょうね。で、家の片隅に重い本の山と共に埋没していた読書器を掘り出して、何とか使おうとしています。重い本を寝っ転がって読むために。

 今どきはコーヒーの値上がりにみんな悩んでいると思いますし、私もです。安い品を探してあっちのコーヒーを買い、こっちのコーヒーを買い、迷いが止まりません。なんでかって言うと、Aのコーヒーがお値段の割に美味しいと思い、次もAを買おうと思ったところ、あっさり値上がりしてしまう、ということが良くあるのですね。あるいは、製品自体が廃番になってしまうこともあります。コーヒーって基本輸入品なので、輸入ロットを売り切ったら再輸入するものの、不作だったり円が安くなっていたりで次は輸入価格が以前より高くなってしまって値上がり、またはもう輸入されなかったり。買う側としては当てにしてたのに、困った、別を探すか、となり、かくしてコーヒーを探してさまようことに。まあ、お金持ってる人ならば、幾らでもお金を出して良いものを買うことができるのでしょうが、それは夢物語です。そこで、あんまり有名じゃないような、あんまり売れてないような、輸入時期もちょっと前で今よりもちょい円が高かった時に輸入したような、だからして少し古いけどお味は許容範囲な、そんなスキマな掘り出し物はないか、と探しています。コーヒーと言えばブラジルが主産地でしょうが、コロンビアのカウカ県とか東ティモールとかラオスとかこんな地方で栽培していたんだ?それを焙煎はイタリアでしていたり国内の静岡とか益子とかでしていたり、このコーヒーは一体どれだけの旅をしてうちに来たんだろう、とコーヒーの旅を思いつつ、淹れたりしているのですが、なかなか決定打となる滞在地を決めることができない今日この頃です。

 1980年代の終盤に『戒厳令下チリ潜入記』という映画と同名の新書が世に出ました。この映画の上映会が日本で企画されることになり、関係者が来日することになりました。招聘した日本側の関係者の一人が家の親戚で、スペイン語が母語のこの一行の通訳をしてくれる人を探しているということで、電話がかかってきました。心当たりを当たったけど空振りだったということで、友達や知り合いのスペイン語学生で引き受けてくれそうな人が居たら紹介して欲しい、とのことでした。スペイン語のスの字も関係ないうちに電話かけて来るなんて、よっぽど困っていたんですね。しかし自分には当時大学院生のスペイン語学生の友人が居ました。一人居るけど・・・と言ったら、是非頼んで欲しい、と言われ、即本人に電話したところ、ああ、その話なら自分は既に頼まれて断った、と言うのです。日本のスペイン語関係者の世間の狭さにびっくり。何で断ったの、勉強になるし、できるんならやればいいじゃない、と言うと、皆さんそう簡単に言うけど、大変だから、と返されました。重ねて、まあ確かに勉強になるのでやりたい気持ちもあったけどとにかく学業が忙しすぎるので、と言われました。そのまま親戚に返事をすると、親戚は、じゃあ来日する方へのプレゼントにメッセージを添えるので、それを訳してくれないか、と改めて依頼があり、友人もそれ位ならいい、とOKしてくれました。文面を私が電話で聞いて、聞き取った内容を友人に電話で読み上げようとすると、思ったよりも長かったらしく読み上げている途中で、面倒だから後は友人が直接うちの親戚とやり取りする、と言ってくれて、私はここで仲介の役目を終えました。因みにプレゼントの品は江戸つまみ簪で、メッセージは来日歓迎の辞と、簪とは~、つまみ細工とは~という説明だったので、やや長いっちゃ長かったかも知れません。今になって思えば、この場合の通訳はただの観光旅行の通訳じゃなかったので、友人が言ったように実際かなり大変だったのかも知れません。相手は映画人だし、迎える日本側も文化人だし、高度に文化的な話とかされても。映画の話でもチリ側の人日本側の人両方がわかっていて通訳だけがわかっていない内容だったりしたらうまく訳せなくて通訳が困るでしょう。映画のタイトル一つとっても訳に困ることがあるのではないでしょうか。戒厳令下チリ潜入記の新書版はノーベル賞作家ガルシア・マルケスの手になるもので、そういう意味でもおろそかに出来ない気を遣う仕事だったんじゃ、という気がします。因みに、友人は今ではスペイン語翻訳家と講師をしています。

 

 

 

 

 最近、ラテン語がプチブームだそうです。ラテン語で思い出したのが「ラテン語は修得するのに半生を費やし、覚えているためにあとの半生を要する言語と言われています」というラテン語の先生のお言葉です。ラテン語の最初の授業でそうおっしゃったのでした。最初の授業でいきなり脅し?とも思うのですが、その頃、履修登録するまでには期間があって、授業の初回を聞いてみて、これは受講しなくても・・・と思ったら登録しないこともできた、つまり初回はお試し期間中でした。先生はラテン語のような習得に苦労する授業を深い考えなしで登録して後々学生が後悔することを防ぐ意味でわざわざ、ラテン語って大変なんだと諭されたのです。この「ラテン語は習得するのに・・・」というフレーズは定番だったみたいで、聞いたのは当時私たちの教室に居た人々だけではなかったようです。そのフレーズを聞いた(のに)私は履修登録することにしました。ラテン語がここまで習得が難しいということは、独学で習得はできないだろう、今が最初で最後の学習のチャンス、と思ったからでした。ラテン語の受講は一つの趣味みたいなところがあって、ラテン語は必修でもないしラテン語を覚えても詩人や聖職者や言語学者でも目指さない限り実用にならないし、頑張れば単位が貰えるロマンある修行と言ったところでした。○○という語は××の語源、と言った解説はナルホドと思えてとても面白かったのですが、暗記すべき事柄が余りにも多くて苦しみました。そんなある時何かの用事で授業を欠席してしまいました。後でテキストの問題を自習しようと思いましたが(テキストは『詳解ラテン文法』(樋口勝彦・藤井昇著 研究社)と『新ラテン文法』(松平千秋・国原吉之助著 南江堂)でした。)テキストには解答が載っていないので授業を欠席すると正解がわからなく、自分の理解が正しいか確かめることもできず、そのこともあって当初「独学は難しい」と自分で予想したことが当たってしまいました。そして結局最後は連続して授業を欠席してしまいました。そこまで行ったら単位を諦めたら良いのに、先生に追加試験かレポートの提出で履修審査していただけないでしょうか?とお伺いをして認められ、何とか単位を取得させていただいたのでした。そんな自分の文字通りなんちゃってラテン語を何とか克服したいと思って果たせないまま今日に至っていますが、本棚というよりもはや累積し重層化した重い岩のような塊となった本の山を掘り進んでいたところ、ラテン語のテキストの鉱脈に突き当たってしまい、これは掘り出しものなのかどうなのか、うーん、とりあえず開いてみました。あわよくばラテン語を勉強すれば、他のラテン語系の言語、イタリア語とかも習得が早いのではないか、などと皮算用をしつつ、古い単語カードを手にしました。このテキストがその昔いったん開いた時点で埃を被ったものを閉じたためか、掃除しても開くと埃が立つので、マスクをして読むという、まるで古文書を読んでいるかのような、ある意味ラテン語にふさわしい?風景になっています。

 

 

 

 

 

 先々週と先週のブンブンジャーにはブンバイオレッドが登場したところです。ブンバイオレッドは自分もブンブンジャーだと言い、それは相棒で宇宙レーサーのビュンディーゼルが言っていることだから間違いないと言うのです。そこでビュンディーの説明を聞けばビュンディーとブンブンはレーシングチーム・ブンブンジャーのチームメイトで、かってチーム名を決める時にブンブンとビュンディーの勝負で決めることにし、その時の勝負で一度だけ勝ったブンブンが推していた名前『ブンブンジャー』にチーム名が決まったのでした。だからブンブンとビュンディーはブンブンジャーで、メンバーもブンブンジャーに所属する人々ってことになったのだそうです。なかなかスポーツマンシップがある命名のエピソードではないでしょうか。

 さて、この物語のヒーローはブンレッドの範道大也で、職業は届け屋で、開発と改造の達人で大金持ちです。そうですよ、レースってお金がかかりますもんねー。技術力を持った起業家のお金のあるチームオーナーといったところでしょうか。それとストーリーの途中からブンブンジャーのメンバーになった調達屋のブンオレンジ・振騎玄蕃。誰かが困っていると「お困りのようだねぇ・・・」と言って必要なパーツを即、持って来てくれる、お金さえ出せば。タダじゃないんだけど、そこは大也が大金持ちだから。そして玄蕃はいつも甘い飴を舐めています。うーん、この設定、この組み合わせ、うまく出来ていますね。届け屋だって起業家だってレーシングチームだって、素早く用意してくれる調達屋は心強いですしね。これからは大也にとって届け屋や起業家が本業、レースが副業みたいな展開になるのかな。楽しみです。

6月24日はUFOの日だそうです。UFOキャッチャーの日でもあり、日清焼きそばU.F.O.の『とにかくしつこいU.F.O.キャンペーン』を実施期間中です。それで思い出したんですが、以前川俣行きバスに乗った時。途中で「次はUFOの里、UFOの里です。」と言うアナウンスが流れて、ウソでしょ?と思いました。そして目的地に着いてバスを降りてから会った友人に「UFOの里っていうバス停があったんだけど!」と言ったら「あー、あるよね。」と、まるで昔なじみの村落だよみたいな感じののんびりしたお答えが。UFOの里にはUFOふれあい館と言う施設もあるようです。UFOの里ではUFOの目撃例が多数あるのだそうです。そう言えば昔、家の近所を家族で散歩していたら空に何やら光源が現れ、家族が「あれは何かなあ?」すかさず私は「UFOだ!」「星じゃないし…」「UFOだ!」「飛行機じゃないし…」「UFOだ!」「サーチライトでもないし…」「UFOだ!」「町の灯りでもない…」「UFOだ!」何を言われても「UFOだ!」と返して騒いでいたのですが、そうやってふざけて騒ぐのが愉しかったですね。UFO絡みの場所にはそんなニュアンスがあるのかな、と思ったのでした。

 最近、センスがいいと思う有名な人は、テレビブロデューサーの佐久間宣行氏と社会学者の岸政彦氏です。このジャンルが違うお二人を並べるのはどうなんでしょう、けど今の時代に合ったものを持っているお二人だと思います。当たり前じゃない、有名ということは人気があるってことは、時代の人っていうことなんだから。髪型やファッションが似た感じで、ご年齢はちょっと差があるもののざっくり言えば同じ年代、テレビに良く出ていて、できる限り限界に近いまでと思われる量のお仕事をしておられると思います。こんなに忙しくて健康とか大丈夫かな、って他人が思うのは余計なお世話ですね。

 センスが良い、で思い出すのはその昔、社会調査入門の授業で先生が「良い社会調査をするためにはセンスと経験が必要なんだよ」とおっしゃったことです。例えばアンケートの質問文を作るのにも適切な言葉を選ばないといけない。助詞ひとつでも使い方で答えが違って来てしまう。それをちゃんとわかって質問文を作るためにはセンスと経験が必要。逆に言うとセンスと経験があれば、特定の結果を導くことが高い確率で予想できる質問文も作れる。だから、企業などからの依頼で「こういう結果が出るアンケートを作って欲しい」と言われたら作れる。というような意味にも取れることをおっしゃり、えっ、アンケート結果って信用できないのでは、と思ってしまったのでした。センスと経験が必要って、職人じゃないんだから、何をもって正確というの?科学的って何?カンとかじゃない科学的正確性ってあるの?とも思ったのでした。年数経って思うのは、面白いと思えるものはセンスが良いんだな、それが学術的なものであっても。面白いかどうかが評価基準というのもどうかとは思いますが、一つの価値ではないでしょうか。同時に、社会科学における正確性とか科学的とかいうことを、あんまり信用しすぎないようにしないといけないんじゃないか、とも思うようになりました。あくまで、これが正確なんだ、科学的なんだ、という主張をしているんだ、という程度の受け取り方を今はしています。

 近頃はクラウドファンディングが盛んです。博物館などが電気代の資金を募ったり、イベントやお祭りを実施するための寄付を募ったりしています。で、募金が集まり、目標達成できて良かった、でひとまず募集が終わります。ただ思うのは、そこで終わりじゃいけないんじゃ、ということです。例えば電気代は毎年かかるものだし、お祭りだって後年も開催したいだろうし、建物だったら後々維持費がかかって行きます。ずっと管理し続けていかないと、物も事も建造物もイベントも消えていってしまうと思います。ずっと管理し続けることによって存在し続けることができるのだと思います。クラウドファンディングはその時はお金を集められて良いし、まずその場が救われないと話が始まらないので、勿論意味は大きいのですが、そこで終わりじゃなくて、むしろ始まりだと思わないといけないのでは。つまり単発や思いつきで終わらないそれらを管理するための組織があって、ずっと続いていかないといけないんだと思います。それってかって景気が良かった頃は公共的な部門がお金を出していたものが、出せなくなってきたケースもあると思うので、仕方ないっちゃ仕方ないけど、募金につきものの課題なのではないでしょうか。