円錐があったとして

それを
三角形に見えた
円に見えた
楕円だった

という人がいてもいい

だって、見え方、切り取り方はそれぞれ、
常にものごとを断面から観る人には
円錐の断面は三角形だったり、円でも楕円でもあるから

別にその人たちは、「私が観たのは円錐ではなかった」とは言ってないし
「円錐の可能性もあるよね」
とか
「あれは円錐だよ」
とか教えてあげてもいいし
訊かれてないなら言わなくてもいい

あれは三角形だ!三角形に決まってる❗

と断定的に報告する人がいたとしても

「あなたにはそう見えたんですね、確かにある切り口からは三角形ですよね」と許容してもいいし、
「あなたはいつも、頂点を含む垂直断面しか見ないから三角形にしか見えないんだよ。
見方が狭すぎるよ、ほかの切り口、観方もあるよ。一度切らないで外から全体を眺めてみてくださいよ、あれは円錐ですよ」
と言ってあげてもいい
(言っても聞かなそうなら言わないでも別にいい)

切り口を斜めにする人も、
全体を光で透かして観る人もいろいろいるよね
いろいろ居ていい
誰も別に間違ってないし
間違うことが悪でもない


自分が「円錐である」という人が

あなたは楕円だ
あなたは円だよね
いや、ずばりあなたは三角形です

といろいろ人に言われて

「そういう見方もあるんだな」
「そういう切り口で観る人もいるんだな」
「人っていろんな見方をするんだな、私のいろんな姿がわかって勉強になるな」
「確かにそうとも見えますよね、だって私は円錐だから」

なら幸せ、なにも起こりませんが

「人が私のことを円錐といってくれないーー」
(いや、円錐だからこそ楕円・円・三角形。。。と言われるわけですよ)
(別に人が円錐だと言ってくれなくても、あなたは円錐で、自分が円錐だとわかっていれば
それでいいのでは?どうして人に同じ理解と表現を求める?)

「どうして円錐である私をわかってくれないの」
(みんなある意味、ある面ではあなたを理解しています。人の理解の仕方はそれぞれ)

「円錐を円錐と言わないのは間違ってる、観方が偏ってる」
(いろんな見方があっていい、観方が偏ってるからあなたのいろんな断面がクローズアップされる)
(間違ってても偏っててもいいじゃないですか。どうしてダメなの?)
(円錐を円錐とみることができるのも才能、円錐を三角形と観るのも才能)

「私は円錐なのに、そのことを否定された」
(別に否定はしてなくない?「私にはこのように見えた、私の目に映った」って言ってるだけですよね)
(違います、私は円錐です、ってもっと人に知らしめる活動、自分を人にわかってもらう活動を自分がすればいいのでは?
自分は円錐であることを真に肚に落としていれば、何をどう言われてもなんでもなくなると思いますよ)

と、もろもろ心かき乱されるケースもありますが
別に悪いことは何も起こってない
そういうことだ、というただそれだけです

ある人が言葉を発してくれたから、教えてくれたから、勉強になった
ということですよね?よかったですよね?

ってなんか、こういうふうに、初等教育
小学校の算数みたいなのを使って解説するのって
いまのふたご座エネルギー(太陽ふたご座期)っぽいし
私のおとめ座っぽいし、
書いてる内容はやぎ座先生っぽい(土星冥王星月やぎ座)