ひろばde体操
―朝日に匂う山桜花―
春の使者、高野台水路の桜が蕾を開き始めた。
春風は桜花の枝を揺らしつつ
追憶は愛し揺れながら来る (のりこ)
1963年、高野台の開拓者として泥まみれの道路を通って入居した。商店も病院もない烈風の中、それはこれからの苦難を乗り越えて明るい未来への始まりであった。東洋一のマンモス・ベッドタウン(千里ニュータウン)に定住してフロンティアとしての歳月を重ねてきた。
入居してすぐ13組の自治会が結成され、終の棲家に未来の希望を祈念して植樹を実行することになった。
長さ約300メートル、幅5メートルの高野台水路の両岸に67本のソメイヨシ
ノと3本の山桜を植樹した。苗木は1メートル程のものから、中には高さ約8メートル程に成長した両腕で抱えきれないほどの大樹もあった。桜の成長は高野台のドラマとなり愛と祈りの記念樹となった。
8世紀の「日本書紀」から1300年、日本文化は聖なる木、桜と共に歩んで
きた。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂う山桜花 (本居宣長)
日本人の心を例えれば朝日に輝く桜のようだ。
全44巻の「古事記伝」を著した作者は、民族の花としての桜を称揚している。本居宣長の肖像画の中にある山桜は、日本の国花としてのルーツを思わせる。桜の「サ」は農耕の神、「クラ」は神の座。桜は神の宿る木。日本の国花だ。
山又山山桜又山桜 (阿波野青畝)
山桜には、故郷の懐かしい想い出の日が浮かぶ。九州福岡の耳納連山の麓にある実家は、屋敷の中に弥生時代の高さ約10メートルの大きな古墳がある。頂上には塚明神が祀られ、山桜があった。古墳の被葬者に先ず祈りを捧げて、山桜の傍にある塚明神を演壇代りにして立ち、弁論大会に備えての特訓の日々が続いた。塚の下で母が時には父と一緒に聞いている。審査員だ。
春は桜花爛漫、上気して、演説する私の傍で[朝日に匂う山桜花]だった。それから遠い歳月が流れた。
毎週月曜日、午前9時45分から山田西第二公園(通称まきまき公園)で「吹田市民はつらつ元気大作戦」として「広場 de体操」に参加。「はつらつストレッチ」「はつらつマーチ」「すいたスマイル体操」多い時は60人と、楽しく身体を動かす。体操は市内136地区で行われている。
参加してすぐ、古墳にあった同じ太さの山桜に気付いた。逢う度に抱きしめる。
見上げる度に、古墳を演説会場にした、あの日の審査員の優しい声が聞こえるようだ。
「のりこの声はきれいだよ。よく通って来る」少女だった私は、未来へ夢を膨らませた。
例年、気圧が下がり雷鳴が轟くと鎧のような蕾が弾ける。暖かさに誘われ、満月に向かい、桜は恥じらうように俯き、ほほ笑んで花開く。水路には幸せの青い鳥、カワセミが来る。
古墳を演説会場にして間もなく、母と永別。山桜の花を別れに納めた。あの日のように儚く、舞い落ちる花びら。逢いたい。
母恋し かかる夕べのふるさとの
桜咲くらむ 山の姿をよ (若山牧水)
♪さくらさくら 野山も里も 見渡す限り かすみか雲か 朝日に匂う
さくら さくら 花ざかり♪
童謡・唱歌「さくらさくら」の作詞、作曲者は不明。江戸時代から琴の曲として使用されてきた。
桜は見守る。古墳の頂上に立ったあの日のように。頬を染めた私を。
「ひろばde体操」を。
紙の墓碑として後世に残す「わが人生の想い出」。自分史綴りの日々を。
注1 本居宣長 (1730~1801)江戸の国文学者
注2 阿波野青畝 (1899~1992)高浜虚子に師事した俳人
注3 広場de体操 問合せ先は、吹田市民高齢福祉室 電話6170―5860番
注4 若山牧水 (1885~1928)歌人
注5 「わが人生の想い出」
「吹田自分史の会」発行、「わが人生の想い出」第⒓集は、市内の全図書館に設置。ブログも開設している。