【露悪的な炎上が許されるのは個人配信だけ】

ヤンマガ編集部がみぃちゃんを演出炎上して話題になろうとしたら、予想以上に炎上して逃亡…。

社会的な企業で、成人した社会人がやるような内容じゃなかったからね。

「露悪的なものが本音」「面白そうなことなら何を言っても良い」という想い違いは、修正されるべきもの。

 

 

「障害者への偏見,悪意は間違いなく社会に存在しています。『障害とは底まで堕ちて逝く特性』『弱者が何処まで墜ちて逝くのか見てみたい』という見方をするひともいるでしょう」

くらいにしておくのが、社会人として外に出しても良い線引きだよ。

『俺ってこんな思想なんだよ』って受けようとするのは、パーソナリティに加虐的障害があるんじゃないかな?

 

 

理想的な担当者

「あらゆる作品において、作品の力とは気づきを与えるものだと思っています。

読者が気づいていない努力の正しさ,報われない努力の悲哀,いま過ぎていく時間や時代の貴重さ,青春の輝き,正義,不正義,加害者,被害者,希望や絶望など、作品が持つ気付きを読者に届けることが雑誌の持つ力であり使命です。

 

みぃちゃんは、その存在が社会的な弱者であったり、加害者であったり、被害者であったりしています。欲望に忠実で唾棄したくなり、また愚昧で哀れで保護したくなります。それは、読者が気が付いてこなかった存在で、読者のなかには自分のなかのみぃちゃんな部分に気が付いたり、自分の家族や友人や恋人や配偶者のなかのみぃちゃん的な部分に気が付くこともあるかもしれません。

社会のなかにもみいちゃんは存在していて、読者がそれまで気が付こうとしていなかったみぃちゃんに気が付いたとき、それに同情するのか、嘲笑するのか、支援するのか、気が付いてなお無視するのか。架空のキャラクターに、不幸になって欲しいと願うのか、救われて欲しいと願うのか。ひとが幸福になることを歓びと感じるのか、ひとが不幸になることを悦んでしまうのか。その気づきや反応の大きさが作品の持つ力なのではないでしょうか。

 

その気づきが、善いことなのか悪いことなのかではなく、その気づきを届けるのが担当者の仕事だと思って関わってきました。作者のみいちゃん観が正しいわけでもなく絶対なわけでもないことを、アニメでは表現して欲しいと思っています。」

 

 

講談社の動画をみると、ジャンプの担当ってかなりまともなことしか誌面に載せてないね。ジャンプ編集者にも傲慢,偏屈,変態,異常者はいるだろうけど、少なくとも露出させることはない。

講談社は、はたらく細胞もそうだけど、ちょっとオカシイね。

 

 

海外の表現を学ぶ際に、日本語には侮辱に関する表現や語彙が少なすぎることを、しばしば経験する。

たとえば、米国の子供たちが普通に読む児童書-My Weird scoolでは、題名でさえ侮辱に関する言葉の羅列だ。

crazy,nuts(オカシな),loopy(バカな,愚かな),bananas, off the wall,out of one's mind,loony,strange,bizarre,rocker,not normal,odd,batty,wacky,loco,kookyなど、途中から日本語では「ヘンな,おかしな」としか訳が出てこなくなる。まぁ、キチガイ,奇抜な,奇天烈な,みたいな微妙な違うはあるのだけども、日本人のガキンチョが悪口を言うなら「おまえ、ヘン!」「おまえ、おかしいよ」くらいが精々な気がする。

相手を侮辱する表現が乏しいのは、「そんなこと言わないの」という規制や、差別用語への規制などの影響も大きく、言葉狩りと言われてきた行為を続けてきたこともあるだろう。「エッタ」「キチガイ」「おし」「つんぼ」「めくら」「かたわ」などの表現で相手を侮辱することは、ほぼみかけなくなった。

 

そして、海外の表現を学ぶと、日本語には「相手を激励する表現や語彙」もまた少ない気がする。

『頑張れ』以外に、すぐに思いつかないのではないか?

励ますときに「ファイトー」というのは、和製英語でリボDの影響らしい。「ガッツだ!」は日本語の励ましなんだろうか?

パワハラの常套句として有名になった「代わりはいくらでもいるんだ」は、昭和の時代には励ますつもりで言ってたひともいたらしい。「代わりはいくらでもいるんだから、替えが効かないように頑張れ」的なね。「(就職はゴールじゃないんだから、使えるようになれ。いまのお前は)使えないな」なひともいたのかな…まぁ、いないな。

 

頑張れもやればできるも、圧があってプレッシャーがあって傷つけることがあるから安易に使わないとか、そんな風潮があって言葉狩りされてきたけれど、「激励のための表現」は新しいものがでてきたりしないなぁ。

【財務省「復興増税だ!」】

 

メディア

「ヘリを飛ばせ!ドローンで充分だと?ヌルいこと言ってんじゃねぇ、こういうときはヘリだよ、爆音でアドレナリンあげあげだー!」

 

日テレ

「今年の24時間TVは熊本震災復興募金だ!」

 

赤い羽根

「よっしゃ、稼ぎ時!子供を動員しろ。夏休み?甘えたこと言ってんな。ボーイスカウトが熱中症で倒れたら話題になるだろ!炎天下の街中に立たせとけ!」

 

リベラル&国民民主党

「高市政権叩き放題のビッグチャンス!被災地に行けば邪魔だ、邪魔するな。行かなければ都内に引きこもり。海外との外交をやろうとしたら、被災地を省みない。外交をしなければ、引きこもり大臣。なんでも叩けるぞ!」

 

日本共産党

「早く募金だ!集金だ!活動費のボーナスタイムだ!」

 

財務省

「復興増税だ!」

 

ガイジン

「盗み時だ!避難して無人の家を漁り放題だぞ。捕まっても不起訴だから気にするな」

『立憲君主制の成立』

書評:君塚直隆

 

「英国モデルの導入も模索されていた事実はあまり知られていない」っていうけど、普通に「まんが 日本の歴史」などで触れられていることだよね?

王室のある英国,皇帝のいる独逸など様々な国が検討されていたっていうのは、割と知られている話だと思うんだけど?

 

歴史学者センセイは、市井の庶民の知っていることなどたかが知れているとお考えなのかな?

日本人が海外旅行に行かないことが、しばしば指摘されている。

大抵は、「うち籠り」「行動力の低下」「低活力」のような批判的なものだ。

『海外に行って視野を広げる必要がある』のようなものを多く見かける。

本当にそうだろうか?

 

海外に行くと不愉快なことが多いではないか。

それは、「日本人だから不愉快な目に遭う」「外国人として不愉快な洗礼を受ける」というものばかりではない。

外国で海外旅行者としての振る舞いをみたときに、西欧圏の旅行者の傍若無人な態度に不快感を覚えるのだ。

東南アジアに旅行に行くと、白人たちのなんと不愉快なことか。

彼らは、その地の風俗を上から目線で嘲り楽しんでいることがよくわかる。

 

バリ島では、市場などで道の交差に花を置くのだが、黄色人種はそれを避けるのに対して、白人は足蹴にする。

タイやベトナムでも、白人の振る舞いは、蔑みがあるというか、「自分(白人)たちはひとつ上の階層に存在するもの」としての振る舞いをする。中国人や韓国人が東南アジアで尊大な行動をするのとは、少し意味合いが違う。中国人や韓国人が東南アジアで尊大な振る舞いをするのは、同じ人間同士でー同じ小学校のクラスメートが馬鹿にしたり悪口を言ったりするような感覚に似ている。

それに対して、白人は「あなたたちのことを理解する努力をしていますよ」というー小学校で校長先生が子供に対して理解を示そうとしているような尊大さなのだ。

 

海外旅行に対して消極的になる理由は、円安,治安,黄色人種への偏見,日本人への偏見など様々な理由があるだろう。しかし、まず何よりも「不愉快だから行きたくない」と言う感情があり、その不愉快な感情には「平気で行われる不正義」「普通に存在する不平等,不公平」に接したくないのだ。

日本にも不正義,不公平,不平等があるが、外国に普通に存在するにも関わらず存在しないかのように扱われている不正義,不平等,不公平は、日本人の心を削る。

仕事として不平等と闘うために海外で活動するような人間は別として、バケーション,休暇,レクリエーション,リラクゼーションのために海外旅行に行くという選択肢は、いまの日本人にはあり得ないだろう。

 

異質な社会や文化が、自分たちよりも優れており、啓示を与え、目標や目的を与え、何らかの目覚めを、喜びを与えてくれるならば、日本人は喜んで海外に行くだろう。しかし、実際に目にするのは、日本国内よりも酷い不正義,搾取,不平等,不公平であり、しかもそれは存在しないかのように扱われているのだ。いわく「日本にも同じ不正義がある」「日本のほうが不平等だ」「日本のほうが搾取が酷い」などと喧伝する存在だ。それらの言うことを真に受けて海外に行けば、目の当たりにするのは、日本よりも酷い現実なのだ。そこで日本人は心が削られ、精神が折れる。

日本国内に留まり、日常を過ごすほうが、遥かに休養となり、心が満たされ、精神が癒されるのだ。

 

さて、それでもなお「海外に行き、見聞を広め、多様な社会や文化に接することが人生を豊かにする」と主張するひとはいるだろう。高度成長期には、多くの日本人が海外旅行に行った。バブル経済期には海外へ個人旅行する若者が多かった。そんなことを主張するかもしれない。

しかし、いまの若者はー現代人は疲弊しているのだ。

昭和の時代に、19時から始まる野球中継を観ている社会人が多く存在した。それは、19時には帰宅して家でのんびりとTVを観ていたのだ。昭和の時代にも残業する日はあったが、残業が日常化することはなく、繁忙期に残業することがあっただけだ。休日にゴルフをするのは仕事を兼ねていたかもしれないが、レクリエーションだ。24時間営業の店舗はなく、夜には家で寝ていた。年末年始にはゆっくり休み、新年の最初の仕事始めは、年始の挨拶をして、挨拶廻りをして終わっていた。挨拶回りから帰社したら、正月気分で酒を飲んでいた。

もちろん、現代社会を当時のように戻すことは不可能だ。つまり、それは、現代社会に生きる若者が、高度成長期やバブル時代のように海外旅行を楽しむことも不可能だということなのだ。