前々から自分の中でナゾだった、
「なぜ三河近辺では赤みそ、みりん、お酢といった
発酵食品の文化が集まっているか」ということについて
工場見学をしてみて、色々わかりました~
そこで聞いたこと等々を合わせて
推測も含めて書いてみたいと思いま~す
そうそう、味噌もみりんも300年ほどのすごく歴史のある
蔵があるんだけど、その頃ってやっぱり「江戸」に人が集まるはずなのに
なんで三河っていうのも思っておりました。
そもそも知多半島あたりってこんな感じの地形になっています。
愛知県の西側が尾張で東側が三河です。
この間行った九重みりんは碧南駅から歩いて5分のところにあって、
ほぼ知多湾に入るところ。
岡崎城からすぐのカクキューは結構陸地に入ったところなんですが
なーんと矢作川のふもとにある味噌蔵だったのですよ
この三河の土地ってとても温暖な気候で作物がよく育つそうな
もともと岡崎城には武士が集まり、清酒も盛んに作られていたそう。
そこで必要になってくるのが清酒作りに欠かせないお米。
知多半島って江戸時代に入ってから新田開発が進んだらしく
チョーたっくさんの田んぼが作られたらしいのです
このあたりを「知多半島」と呼びますが、一説には知多の語源は
千田から来ているとも言われているほど
みりんはもともと女性や下戸が飲む甘いお酒として作られたものです。
武士は清酒をメインで飲むため、清酒造りが盛んだったのだけれど、
清酒をたくさん作っていたのでみりんを作る際に必要な米焼酎を作るため必要な
酒粕も手に入れやすい環境にあったんですよね~
九重みりんの創始者である石川家はもともと廻船問屋で
全国各地から仕入れた情報から三河が本みりん醸造に適していると考えて作り始めたとのこと。
廻船問屋なので船も持ってるし、碧南市は知多湾沿いにあるので
そのまま船に乗せて、江戸の売りに行ったのです。
なのでこちらで作られたみりんも一番消費されたのはやっぱりお江戸。
そして本みりんにまず目をつけたのが、当時はやっていたそば屋にうなぎ屋。
そこから調味料として使われることが多くなったようです。
あと実は上の地図にもある「常滑」ってところは常滑焼が有名なところ。
こちらが昔の一斗缶
常滑焼でこのカメを作り、液体である本みりんを詰めて、
船に詰め込み、江戸に運んだのです
先日ブラタモリの伊勢編を見ていても思ってたけど、当時の廻船問屋って
すっごく知識と力を持ってたんだなぁと思います。
その上全国規模で情報をもっているからこそこういう発想ができたんだなぁと思う。
一方の赤みそはというと、
もともと良質な大豆ができたことと、美味しい天然水に恵まれた上
三河湾岸って古墳時代から製塩土器がたくさん見つかるほど塩を調達しやすい土地
だったんですね。
材料にも恵まれ保存性も高い赤みそは矢作川から船に積み、
江戸まで運ばれて行きました。
こちらもみりん同様一番に消費されたのはお江戸
トラックのような便利なものがなかったので、
いかに水運に結びつけることができるかというところがネックだったんですね~
それにしても原材料から水運から
気候からすっごく恵まれてたんだなぁと。
個人的にすごく気になるのは実は廻船問屋だったりします~