意外と記事があり、前回からだいぶ期間が開きましたが高谷までは載せたいと思います。
ほとんどの人がするんじゃないでしょうか!?
しかし、食べ盛りの年頃に脂っこいものを減らして、野菜を増やしてなんて
お母さんは驚いたでしょうね!
でも、小学生から真面目に練習してきた成果が出てプロに入って来ました。
本人も言うとおり、ここからが本当の勝負だと思います。
アメリカ同時テロの影響で来た福岡の地・・・
運命といえるかもしれませんね。
努力家の長谷川の事ですから、時間がかかっても立派な選手になってくれると思います!
ソフトバンクから大学・社会人ドラフト5巡指名を受けた専大・長谷川は、生まれ持った「努力」という才能を武器に、プロの扉をこじ開けた。 長谷川家のニ男として誕生。幼少のころは、大工をする父節美さん(54)にあこがれ、現場へよく遊びに行く活発な男の子だった。野球との出会いは小学校に上がる前。5歳上の兄真彦さんが所属する少年野球の練習を見に行ったのがきっかけだった。「野球をやっている兄貴の姿が格好よくて。自分もああなりたいと」。小3になって両親から入部許可が下り「大泉スポーツ少年団」で軟式野球を始めた。 野球部に入部する前からすでに、野球小僧だった。プロ野球中継を見ながら、自らグラブを持って投手のまねをするのは当たり前。CMに入るとシャドーピッチングを繰り返し、野球部に入部しても、その勢いはとどまることを知らなかった。高学年になるとプロ野球中継を見ながらゴムボールで握力強化に努めるなど、野球小僧ぶりはエスカレートしていった。 食事面でも「努力」を重ねた。プロ野球選手の食事を特集した本を購入すると、母真知さん(52)に「タンパク質を多めに。油が多い。野菜を増やして」と依頼。真知さんも息子の思いもよらぬ注文に、驚きを隠せなかったという。 そんな野球小僧が注目を集め始めたのは専大に進学してからと、意外と遅い。酒田南では2年夏から3季連続甲子園出場。目立った成績を残せなかったことが逆に、内に秘めたものを呼び起こしたのかも知れない。注目度の高い東都リーグ所属とはいえ4年間、2部に低迷。1部復帰を目指し、練習後のマシン打撃は毎日欠かさなかった。おかげで両手には、破れて幾重にも固まったマメのあとが“勲章”のように残る。「これが僕のすべて。プロでプレーするために練習を重ねた。ここからが勝負です」。長谷川は決意を口にした。 高2(01年)の修学旅行。欧州へ行く予定が、アメリカを襲った中枢同時テロの影響で福岡へと変更。そこで初めて福岡ドームへ足を踏み入れた。福岡の地は、長谷川にとって「運命の地」かも知れない。【石田泰隆】 ◆長谷川勇也(はせがわ・ゆうや)1984年(昭59)12月22日生まれ。山形県鶴岡市出身。小3から「大泉スポーツ少年団」で軟式野球を始め、鶴岡第4中でも軟式野球部に所属。おもに投手。酒田南では1年秋から外野手に転向。2年夏、3年春、夏と3季連続で甲子園に出場する。専大では1年春からレギュラー。3年秋に東都リーグ2部の首位打者を獲得。今秋は6本塁打を放ち、MVPに輝く活躍で9季ぶりの1部復帰に貢献した。50メートル走6・1秒、遠投115メートル。178センチ、82キロ。右投げ左打ち。血液型AB。根っからの野球少年ですね!投手のフォームを真似たり、打者のフォームを真似たりは
ほとんどの人がするんじゃないでしょうか!?
しかし、食べ盛りの年頃に脂っこいものを減らして、野菜を増やしてなんて
お母さんは驚いたでしょうね!
でも、小学生から真面目に練習してきた成果が出てプロに入って来ました。
本人も言うとおり、ここからが本当の勝負だと思います。
アメリカ同時テロの影響で来た福岡の地・・・
運命といえるかもしれませんね。
努力家の長谷川の事ですから、時間がかかっても立派な選手になってくれると思います!