第一次世界大戦というと、タカナを含めて殆どの人は知らない遠い過去の出来事です。
でも、忌まわしい戦争にも暖かい人間としての交流のドラマがあったことを知りました。ドイツと日本は怨念の間柄ではなかったのですが、日英同盟に基づいて(イギリスがドイツ権益地域の山東半島を戦後日本に与えると約束したため)、1914(大正3)年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として、日本は参戦した。欧米諸国と同じく植民地支配の野望という病気に罹ったのですね。

日本はドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。敗れたドイツ兵士約5000人が俘虜となり、日本各地の収容所へ送られました。その内、四国の徳島・丸亀・松山にいた約1000人が1917(大正6)年から1920年までの約3年間を鳴門の板東俘虜収容所で過ごすことになったのです。


鳴門市ドイツ館_1      13/10/12撮影


鳴門市ドイツ館_2 入場券

他国の俘虜になるだけでも、屈辱だったはずです。しかし、板東俘虜収容所だけはドイツ人に対する扱いは人情味あふれる特別なものだったようです。
収容所長の松江大佐や補佐役の高木大尉のような優れた人格者がいたことは天の采配だったのでしょうか。


《松江大佐の俘虜管理方針》

「世界に松江のような収容所長はいただろうか」と讃えられた松江は、甘すぎる、金をかけすぎるという上からの批判にもめげず、俘虜たちが健全で快適な生活を送れるよう心をくばった。厳しい中にも俘虜のプライドと自主性を重んじ、できるかぎり所内外での自由な活動を認め、うながした。俘虜を人間として信頼し心服させたこの管理方針は他の収容所の俘虜からも高く評価され「模範収容所」として注目された。

鳴門市ドイツ館_3  松江豊寿収容所長の写真
カイゼル髭をして貫禄がありますね。


鳴門市ドイツ館_4
松江大佐の軍服と遺品                       

カイゼルひげ【カイゼル髭】
ドイツ皇帝ウィルヘルム二世のように,左右の両端が上へはねあがった口髭。


《名参謀高木大尉の人望》

高木繁は丸亀町(現、香川県丸亀市)で生まれた。松江所長と共に、徳島俘虜収容所から板東俘虜収容所に移り、良き補佐役として収容所運営の支えとなった。語学の天才といわれた高木は、イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・ロシアなど7カ国語に通じ、堪能なドイツ語で俘虜たちの不満や要望に対処し、収容所当局と俘虜たちとの調整役を務めた。
残念なことに、第二次大戦後、旧ソ連の抑留先で死亡したといわれている。人格者といえども人生は過酷ですわ。


鳴門市ドイツ館_5   高木大尉の遺影


鳴門市ドイツ館_6
1919(大正8)年に撮影された一枚の写真、収容所職員のほぼ全員が写っている。

収容所の管理部門は、収容所長以下3名の通訳を含む合計17名からなっていた。このほか捕虜の監視にあたるため徳島市の歩兵第62聯隊より59名の兵士が「板東衛兵分遣隊」として分遣されて来ていた。さらに収容所外の正門そばには「板西警察分署警備警察官出張所」が設置され、警官30名が交代でパトロ-ルに当たっていた。


鳴門市ドイツ館_7  坂東収容所のジオラマ

◎松江所長らの配慮だけでなく、ドイツ人俘虜たちの生活の規律、教養の深さは驚くべき内容でありました。

1.所内新聞『ディ・バラッケ』の発行

無気力・無関心状態に陥りがちな収容所生活の刺激として」、また教養と娯楽のために、1917(大正6)年9月から2年間、収容所の兵舎にちなんで銘々された所内新聞『バラッケ』が俘虜たちの手で発行された。多色刷りで、週刊から後に月刊となり、全部で85号、2700ページ余りのものである。1回の発行部数300部、月額50銭で、他の収容所の俘虜も購読していた。
戦況や所内での活動の報告、徳島の紹介や随筆など、記事内容は多彩であった。
ちなみに、印刷に使われていたのは日本製の謄写版だったそうです。

ディ・バラッケ(兵舎)第1号の記事の一部を紹介いたしましょう。
-板東のスポーツ-
「健康ナル肉体ニ健全ナル精神宿レカシ」(というラテン語のことわざがある)-恐らく、我々の収容所ほど、このことわざが評価されるところは他にないであろう。・・・2年間規則正しい相当量の運動をせずに閉じ込められていることがどんな意味を持つか、我々はいうまでもなく承知している


2.講演・学習活動

約3年間の収容期間中に月平均8回、多い月には20回におよぶ講演会が開かれた。専門知識を持つ俘虜が交互に、中国問題・ドイツ史・アジア史・宗教・政治・地学・生物学・戦局などを語った。地域の人たちへの講演も、郡役所で土曜日ごとに行われた。
日本語・中国語をはじめとする語学、書道などの学習会もさかんであった。地域への関心も高く、その学習成果が板東などの民族・産業・地質などとして『バラッケ』に掲載された。

※ドイツ人俘虜たちの教養の深さと人格に感心した地元の人たちは彼らに好感を持ち、俘虜たちを応援するようになったのです。心と心の交流は美しく強い絆を結ぶものですね。

地域の人々は、俘虜たちの進んだ技術や文化を取り入れようと牧畜・製菓。西洋野菜栽培。建築・音楽・スポーツなどの指導を受けました。
そして板東の街並みでは、俘虜たちを「ドイツさん」と呼び、彼らとの間で日常的な交歓風景があたりまえのようにみられるようになりました。

鳴門市ドイツ館_8   板東収容所内図書館のスケッチ
俘虜が本国から取り寄せたり、東アジア人クラブや、日本の青年協会から寄贈された本を本をもとにした図書館があった。蔵書は約5420冊で、娯楽書75%、学術書10%、外国語図書8%だったそうな。

3.音楽・演劇活動

鳴門市ドイツ館_9 第九シアター
人形が当時のコンサートを再現している場面


鳴門市ドイツ館_10 ヘルマン・H・ハンゼンの写真
§ヘルマン・H・ハンゼン軍楽兵曹は、所内で「もっとも功績があり皆に好かれている人物」として『バラッケ』でも讃えられている。総員45名のオーケストラ(のちM.A.Kオーケストラと改称)を組織し、36回ものコンサートを開いた。代表的な演奏は、ベートーヴェン「第9」、「ワーグナーの夕べ」などである。なお開所日には松山・丸亀からの俘虜たちを行進曲で迎え、板東での収容所生活に希望を与えた。


鳴門市ドイツ館_11 パウエル・エンゲルオーケストラ

プロのヴァイオリン奏者であったパウエル・エンゲルが、1915(大正4)年7月に丸亀で編成したのが始まりである。当初は十分な楽器が手に入らず、ピアノの楽譜をエンゲル自身で編曲したりした。板東では松山からの演奏者も加えて45名の編成となり、通算21回の演奏会を行っている。ベートーヴェン「第1」、「第5」「第6」・ラムゼーガー「忠臣蔵」のほか、彼自身が作曲した「青島の戦士」「シュテッヘル行進曲」なども演奏している。


鳴門市ドイツ館_12   坂東収容所内・演劇活動の一例

4.俘虜であるから、とうぜん建設作業などにも当たらねばならなかった。

橋の建設:一種のボランティア活動として、俘虜によっていくつかの橋が造られた。最初に手がけられたのは板東町の要請による木の橋で、近隣の人々も利用した。現在残っているのは、「ドイツ橋」「メガネ橋」と呼ばれるアーチ状の2つの石橋で、上流からも石を集め、一切セメントを使わずに組まれている。素人を交えての仕事だったが、70年たった今でもたわみもなく、ドイツ人の技術と気質を示す貴重な遺産となっている。


「ドイツ橋」  ウィキペディア提供

♪♭日本初、ベートーヴェン「第九」演奏および合唱の地-鳴門市#♪


鳴門市ドイツ館_13 ベートーヴェンの像とタカナ

この像の碑文

ベートーヴェン「第九」は1918(大正7)年6月1日、ここ板東において日本で初めて演奏された。
第一次世界大戦時、中国の青島で捕虜となったドイツ兵士約1000名が、1917年から約3年間ここ板東の地で暮らした。彼らは俘虜収容所長松江大佐のヒューマニズムあふれる処遇のもとに、創意と自主性に満ちあふれた集団生活の中で100回を超える演奏会を開催しているが、ヘルマン・ハンゼンが指揮するTokusimaオーケストラによって、その全曲が演奏された。
「第九」はベートーヴェンがシラーの詩集を借りて、人間愛を描いたものである。
鳴門の「第九」は、板東生まれ、市民が育んだ固有の財産であり、国境を越えて世界へ発信する平和のシンフォニーでもある。
このたび、鳴門市市制施行50周年を記念して、友愛と平和を永遠に誓い、ここにベートーヴェンの像を建立する。
1997(平成9)年5月15日
                       鳴門市長  山本幸男

シラー〖Johann Christoph Friedrich von Schiller〗
( 1759~1805 ) ドイツの詩人・劇作家。ゲーテとともに疾風怒濤期を経てカント哲学の影響下に美学を研究,古典主義に基づく歴史劇を確立。代表作「群盗」「たくらみと恋」「ドン=カルロス」「ワレンシュタイン」「オルレアンの少女」「ウィルヘルム=テル」,著「オランダ独立史」「素朴と情感の文学について」など。シルレル


鳴門市ドイツ館_14 鳴門市民合唱団による1998年、「第九」演奏会の陶板写真

毎年6月1日、定期的に演奏会を開催されているそうです。素晴らしいですね。「第九」の輪は全国に広がっています。高らかに響け 平和を願う歓びの歌声

@俘虜収容所が取り持つ縁でドイツ・リューネブルク市と姉妹都市締結に至ったとは不思議なご縁ですね

1972(昭和47)年に旧ドイツ館が`建設され、1974年には鳴門市とドイツ・リューネブルク市との間で姉妹都市盟約が締結されました。
これ以後、両市は相互に親善訪問団を派遣するなど、国際交流を活発に展開するようになりました。
鳴門市では、ドイツ村公園の建設を始め、ドイツと共同でドイツ兵士合同慰霊碑(1976年)やばんどうの鐘(1983年)などを建立し、1993(平成5)年には新し´いドイツ館が完成しました。

鳴門市ドイツ館_15
リューネブルク市の古い市庁舎(Rathaus)は、北ドイツでは最古の木造建築

◎鳴門市に来て良かった。殺伐とした時代にほのぼのとした人間愛を感じた次第です。