-生き長らえた平家の公達-

源氏に敗れて、四国の祖谷渓や九州の山懐などに隠れ住み、ひっそりと生きた者達を「平家の落ち武者」といいますが、中には頼朝に協力(または組込まれた)して生き延びた、平頼盛・通称池殿(平忠盛の五男)というしたたかな男もいました。彼は前述しました「平家没官領」のうち33カ所を返還してもらっている。頼盛の母は、頼朝の助命嘆願を行なったとされる池禅尼です。その旧恩に報いた措置でした。
後白河院や八条院(父:鳥羽天皇、母:皇后宮 藤原得子)と太いパイプを持っていたため朝廷との交渉役として厚遇されたとか。
また、平時忠・別名平大納言のように、検非違使別当として義経に接近し娘を嫁がせようと試みた(地位の保全・目的のためには手段を選ばない)やり手の実務官僚もいました。
彼は能登国へ流罪になったものの、その子孫は命脈を保つことが出来たのであります。


平家略系図


平大納言流されの場面『平家物語絵巻』:林原美術館蔵

平時忠は、大治2年(1127)に平時信の子として京に生まれたとされる。姉の時子は、平清盛の正室となり、また、妹の滋子は後白河天皇の后(建春門院)となって高倉天皇を生んだ家系でしたから、権勢を欲しいままにしていたのです。いわゆる、「平家にあらずんば人にあらず」という奢った言葉をはなった人物として有名であります。
彼も壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したのち、捕らえられ死罪になるはずであった。しかし、時忠は、時の英雄・判官義経に三種神器の神鏡を奉じ、義経と女を結婚させる工作などして助命されたのです。うまい手立てを考えたのものですね。世渡りが上手い。
その後、頼朝に反旗を翻して、義経が逃亡したため、彼を探索するのに躍起となった頼朝は時忠やその子孫などに関心をもたなくなっていきました。このように、幾つもの幸運が重なったのです。
文治元年(1185)9月23日、時忠は能登国へ流罪されることになりました。配流地は奥能登(現在の珠洲市大谷町)と言い伝えられていますが、どのようなルートで能登へ流されたのか定かではありません。ここからは伝承の世界です。

◆平時忠の子孫とされる、能登「時国家」

輪島市の中心部から国道249号線に沿って東へ約9km行くと、日本海のブルーに縁取られた、名高い千枚田の美しい風景が見えます。


千枚田その1    2012/06/13撮影


千枚田その2

ここから、さらに東へ約7.6km曽々木海岸方面へ向かい、国道から県道6号線へ入ったところに下時国家住宅(輪島市町野町西時国)があります。
上時国家は旅程の都合で、立ち寄りませんでした。(二軒とも国重要指定文化財に登録されている。)
◎「時国家の由来」については諸説ありますが、ここでは下時国家の資料を元に紹介します。
時国家の初代は、文治元年(1185)に能登に流された平大納言時忠です。時忠は大谷(現珠洲市)の山中で晩年を過ごしました。その子時国は平野部に居を移し、農耕を営み、貧弱する農民を救済し、やがて、当地に時国村を成しました。

その後,天正9年(1581)、能登は前田藩領となり、慶長11年(1606)には時国村の一部が越中土方領に替地され、時国家は二重の支配を受けることになりました。
この二重支配を逃れるため、寛永11年(1634)、13代目当主藤左衛門時保は時国家を二家に分立し、当人は加賀藩領に居を定めました。ここに加賀藩領の時国家と土方領の時国家が誕生しました。
当家は加賀藩領の時国家で、町野川の下流に位置することから「下時国家」とよばれています。江戸時代を通じて山廻役、御塩懸相見人、御塩方吟味人など藩の役職を代々受け継ぐとともに、多くの小作人を抱えて大規模な農業や塩業、回船業などを営んでいました。

「平家の落ち武者」とは比べものにならない豪農になったんですね。名字帯刀も許されていたようです。

1.《屋敷廻り》


下時国家住宅その1    2012/06/13撮影


下時国家住宅その2

構造は入母屋造茅葺、桁行(家の桁の通っている方向の長さ)13間=24.2m、梁間8間=14.7m、軒高3.5m、棟高11.7m、平面積357.4平方m、茅葺面積669平方m


下時国家住宅その3


下時国家住宅その4

大戸口から入った場所に広がる約130平方mの土間。土間中央の三本の独立柱が吹き抜けとなった上部の梁22本を支える構造。
間取りは庭に面して置き座敷、中座敷、と呼ばれ下座敷と並び御縁座敷と呼ばれる入側(いりかわ)に加えて濡れ縁がある。大きな囲炉裏の間と三つの並びの座敷の間には居間があり、神棚と先祖を祭る仏壇が上下に飾られている。

いり かわ【入側】
座敷と濡れ縁との間の細長い通路。畳を敷いたものを縁座敷という。いるかわ。


下時国家住宅その5  庭園


下時国家住宅その6    囲炉裏端
  

下時国家住宅その6    装飾吊り金具


下時国家住宅その7   襖の山水画


下時国家住宅その8   欄間


下時国家住宅その9  生花と琵琶


下時国家住宅その10   主人用の駕籠


下時国家住宅その11   奥方用の駕籠
何故か天井に吊してある。

2.《 豪華な家具調度類と衣装 》宝物館展示


揚羽蝶紋陣羽織と刀剣など 
うこん羅紗地に下時国家の家紋である揚羽蝶紋を背中に配している。
初期は普通の羽織を陣中で着用しているうちに自己顕示の羽織となった。


揚羽蝶紋火事羽織と胸当など


奥方の手鏡、お歯黒壺などの化粧道具類


箪笥類


輪島塗の什器類


奥方の打ち掛け

こんな豪華なものを、身につけたり、使用していたとは驚くばかり。とても流人の家系とは思われません。大名並みですね。

3.《 『能登安徳天皇社』-平家末裔の証しと務め 》
庭園の一角に『能登安徳天皇社』があります。これは、
下関の元官幣大社、赤間神宮からお受けした 安徳天皇の御分霊を祭ってある社です。

『能登安徳天皇社』その1


『能登安徳天皇社』その2

時国家は全国の平家ゆかりの人達と「全日本平家会」を結成し、今は時国家当主が総裁を務めているとか。安徳天皇の祠を建て、平家会を組織する所以は、時忠に直結していると信じる家柄を「断絶させてはならぬ」という強い使命感とプライドによるものでありましょう。

◆時国家の伝承の世界から離れ、珠洲市宝立町鵜飼へ行きましょう。
ここには能登半島国定公園の象徴である、無人島で通称・軍艦島と呼ばれる「見附島」があります。
(空海が佐渡島からやってきて最初に見つけたことから「見附島」と命名されたとする地名伝承がある)

島は長さ約150m、幅約50m、標高約30mの小島で、全体が珠洲市の特産物である七輪の原材料として知られる珪藻土で出来ている。

地震などの自然災害による崩落と、経年による風化のために少しずつ形が変わっているとか。景勝地を守るのも大変ですわ。


見附島その1    2012/06/13撮影


見附島その2


見附島その3

これで、能登半島ともお別れです。『平家物語』もいよいよ終盤にさしかかってきました。