《(木曽)源義仲の場合 》前編-義経と似て否なる人生
平家を最初に都から追い落としたのは、他ならぬ朝日将軍・木曾義仲でしたが、大河ドラマや芝居の演目に義経ほど、取り上げられる事はあまりないようです。でも、俳聖・松尾芭蕉はまるで違う目線で人物をみている。平泉で、「夏草やつわものどもが夢のあと」と俳句を詠みましたが、義経にはふれていません。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、越前の燧ヶ城(ひうちがじょう)では「義仲の寝覚の山か月かなし」と詠みました。
有名な「倶利伽羅峠合戦」で大勝利したものの、都へ行ったが為に悲運な死を遂げねばならなくなった若武者の死を悼んだのでありましょう。
◆駒王丸(後の義仲)は源義朝から逃れて、木曽で育った。
義仲の父・義賢(よしかた)は武蔵国比企郡(現・埼玉県比企郡嵐山町)に進出していたが、源氏同士の勢力争いの渦に巻き込まれたのです。久寿2年(1155)8月、義朝が長子・悪源太義平(15歳だったという)が大蔵館を襲撃し叔父・義賢を殺害した。惨いですね。時に駒王丸2歳なり。
大事件を起こしたのですから、国守、朝廷から、譴責(けんせき)処分を受けるはずですが、この義朝、義平らの悪行を当時の武蔵守は黙認したのです。この武蔵守こそ、「平治の乱」の首謀者として名高い藤原信頼だったとは、驚きました。
義賢を葬った源義朝は、駒王丸も殺害するよう、配下の武蔵畠山荘の豪族、畠山 重能( しげよし)に命じました。しかし、幼子を不憫に思って、武蔵長井庄の別当・斎藤 実盛( さねもり)に義仲とその母を託したのであります。
彼らの温情により 信濃の国へ逃れることができた駒王丸と母・小枝(さえ)御前は、駒王丸の 乳母の夫である、信濃の木曽豪族・中原兼遠(かねとお)に庇護されたのでした。そして、兼遠の元で逞しく育った駒王丸は、通称を「木曾次郎」と名乗ったそうです。

父・義賢画像 義仲館蔵 2012/11/04撮影

母・小枝御前画像

義仲の恩人、別当・斎藤 実盛像の写真

源義賢の墓の写真 埼玉県嵐山町にあるとか。
◆義仲が育った木曽川上流の風景
西に木曽の御嶽山、東に木曽駒ヶ岳の雄大な山嶺を仰ぎ見る素晴らしい環境です。

木曽駒ヶ岳の一部写真 2012/11/04撮影

夕暮の木曽駒ヶ岳を望む
◇木曽八景の一つ「寝覚の床」-国指定史跡名勝天然記念物-上松町の案内板
木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月に亘って浸食して出来たもの。
岩盤に見られる水平方向と垂直方向に発達した方状節理(割れ目)やポットホール(甌穴・対岸の岩にあいた丸い穴)は、日本でも代表的なものです。

「寝覚の床」その1

「寝覚の床」その2

「寝覚の床」その3

「寝覚の床」その4
◎俳人正岡子規が「誠やここは天然の庭園にて・・・仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったのも分かる絶景ですね。でも、眺めに夢中になり、写真を撮るのは非常に危険です。滑って、石と頭突きでもしたら、おお怪我をしますよ。皆さんご注意!!
◆義仲館で見た木曾義仲の数奇な運命

義仲館その1 義仲と巴御前の銅像 2012/11/04撮影
※中原兼遠は、源氏の御曹司である義仲を大切に育て、自分の息子の樋口兼光と今井兼平を義仲の家来にしたとか。よほど、期待していたのでしょうね。
他に根井行親(ねのいゆきちか)、楯親忠(たてちかただ)を加えて「義仲四天王」という。この中原一族をはじめとする信濃武士団は、勇猛果敢な義仲軍の中核部隊となるのです。

義仲館その2 以仁王の令旨を賜る場面。
左側に立って読み上げているのが「お化け・源行家=またの名を新宮十郎」人形
源行家は頼朝、義経、義仲らの叔父にあたりますが、協調性に欠け奇怪な行動(擦り寄ったり、悪口をいったり)で誰からも不評を買い、文治2年(1186)に捕らえられ斬殺されました。

義仲館その3
令旨に聞き入る義仲以下の主従

義仲館その4
義仲四天王と軍師の覚明(僧侶風の人形)
◇人形とはいえ手間を掛けた演出ですわ。
義仲は、奥深い木曽山中で武芸に励み、心身を鍛えたといわれています。この点では、幼少期の義経と似通っています。ただし、義仲には支援者がいて、四天王や巴御前のような強固な信濃軍団を率いて挙兵した点では境遇が異なりますね。

義仲館その5 義仲と巴御前 義仲館

その6 今井兼平と樋口兼光

義仲館その7 根井行親と楯親忠

義仲館その8 治承4年(1180)9月、義仲挙兵の様子を描いたもの。
★木曽義仲の行く手にも、厳しい試練が待ち構えていました。運命の船出。
平家を最初に都から追い落としたのは、他ならぬ朝日将軍・木曾義仲でしたが、大河ドラマや芝居の演目に義経ほど、取り上げられる事はあまりないようです。でも、俳聖・松尾芭蕉はまるで違う目線で人物をみている。平泉で、「夏草やつわものどもが夢のあと」と俳句を詠みましたが、義経にはふれていません。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、越前の燧ヶ城(ひうちがじょう)では「義仲の寝覚の山か月かなし」と詠みました。
有名な「倶利伽羅峠合戦」で大勝利したものの、都へ行ったが為に悲運な死を遂げねばならなくなった若武者の死を悼んだのでありましょう。
◆駒王丸(後の義仲)は源義朝から逃れて、木曽で育った。
義仲の父・義賢(よしかた)は武蔵国比企郡(現・埼玉県比企郡嵐山町)に進出していたが、源氏同士の勢力争いの渦に巻き込まれたのです。久寿2年(1155)8月、義朝が長子・悪源太義平(15歳だったという)が大蔵館を襲撃し叔父・義賢を殺害した。惨いですね。時に駒王丸2歳なり。
大事件を起こしたのですから、国守、朝廷から、譴責(けんせき)処分を受けるはずですが、この義朝、義平らの悪行を当時の武蔵守は黙認したのです。この武蔵守こそ、「平治の乱」の首謀者として名高い藤原信頼だったとは、驚きました。
義賢を葬った源義朝は、駒王丸も殺害するよう、配下の武蔵畠山荘の豪族、畠山 重能( しげよし)に命じました。しかし、幼子を不憫に思って、武蔵長井庄の別当・斎藤 実盛( さねもり)に義仲とその母を託したのであります。
彼らの温情により 信濃の国へ逃れることができた駒王丸と母・小枝(さえ)御前は、駒王丸の 乳母の夫である、信濃の木曽豪族・中原兼遠(かねとお)に庇護されたのでした。そして、兼遠の元で逞しく育った駒王丸は、通称を「木曾次郎」と名乗ったそうです。

父・義賢画像 義仲館蔵 2012/11/04撮影

母・小枝御前画像

義仲の恩人、別当・斎藤 実盛像の写真

源義賢の墓の写真 埼玉県嵐山町にあるとか。
◆義仲が育った木曽川上流の風景
西に木曽の御嶽山、東に木曽駒ヶ岳の雄大な山嶺を仰ぎ見る素晴らしい環境です。

木曽駒ヶ岳の一部写真 2012/11/04撮影

夕暮の木曽駒ヶ岳を望む
◇木曽八景の一つ「寝覚の床」-国指定史跡名勝天然記念物-上松町の案内板
木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月に亘って浸食して出来たもの。
岩盤に見られる水平方向と垂直方向に発達した方状節理(割れ目)やポットホール(甌穴・対岸の岩にあいた丸い穴)は、日本でも代表的なものです。

「寝覚の床」その1

「寝覚の床」その2

「寝覚の床」その3

「寝覚の床」その4
◎俳人正岡子規が「誠やここは天然の庭園にて・・・仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったのも分かる絶景ですね。でも、眺めに夢中になり、写真を撮るのは非常に危険です。滑って、石と頭突きでもしたら、おお怪我をしますよ。皆さんご注意!!
◆義仲館で見た木曾義仲の数奇な運命

義仲館その1 義仲と巴御前の銅像 2012/11/04撮影
※中原兼遠は、源氏の御曹司である義仲を大切に育て、自分の息子の樋口兼光と今井兼平を義仲の家来にしたとか。よほど、期待していたのでしょうね。
他に根井行親(ねのいゆきちか)、楯親忠(たてちかただ)を加えて「義仲四天王」という。この中原一族をはじめとする信濃武士団は、勇猛果敢な義仲軍の中核部隊となるのです。

義仲館その2 以仁王の令旨を賜る場面。
左側に立って読み上げているのが「お化け・源行家=またの名を新宮十郎」人形
源行家は頼朝、義経、義仲らの叔父にあたりますが、協調性に欠け奇怪な行動(擦り寄ったり、悪口をいったり)で誰からも不評を買い、文治2年(1186)に捕らえられ斬殺されました。

義仲館その3
令旨に聞き入る義仲以下の主従

義仲館その4
義仲四天王と軍師の覚明(僧侶風の人形)
◇人形とはいえ手間を掛けた演出ですわ。
義仲は、奥深い木曽山中で武芸に励み、心身を鍛えたといわれています。この点では、幼少期の義経と似通っています。ただし、義仲には支援者がいて、四天王や巴御前のような強固な信濃軍団を率いて挙兵した点では境遇が異なりますね。

義仲館その5 義仲と巴御前 義仲館

その6 今井兼平と樋口兼光

義仲館その7 根井行親と楯親忠

義仲館その8 治承4年(1180)9月、義仲挙兵の様子を描いたもの。
★木曽義仲の行く手にも、厳しい試練が待ち構えていました。運命の船出。