-河内源氏の没落と平氏の台頭そして後白河法皇の影がうごめく-
源氏というのは、同族相食む、共食いのDNAを受け継いでいるのか、武門の誉れ高き義家でさえ、弟・義綱と王権のお膝元である京で一戦まじえる寸前まで、仲が悪くなったのです。その主な原因は後三年の役以後、朝廷の信頼を失って低迷する義家と、京にあって立場を上昇させた義綱との、河内源氏嫡流をめぐる軋轢らしい。
兄弟の相克はそう簡単におさまらなかったようで、義綱が関白師通の後ろ盾で「美濃守」になったのもつかの間、4年後に師通が急死し、摂関家は若年(22才)忠実を後継者にせざるをえなくなり、勢いを失ったのです。この事が「白河院政」確立への大きなきっかけとなります。
今度は義家が白河院と密接に関係を結び巻き返しを図りますが、彼の死後、頼みの嫡男・義親が乱行(白河院近臣の出雲守・藤原家保の目代を殺害した事など)を働いたので、朝廷への反逆者とみなされ、朝廷は乱地への追捕使に、隣の因幡の国守平正盛(平将門を討伐した貞盛の子孫)を任じたのであります。正盛が乱を平定したことにより、軍事貴族の座は、河内源氏から伊勢平氏に移行したのです。源氏のごたごたがまねいたこととはいえ、
皮肉ですね。
※源氏系統・共食いのDNA=保元の乱における為義・義朝父子、頼朝と義経の対立、南北朝時代の足利尊氏と弟直義の確執など。
もく‐だい【目代】
①平安・鎌倉時代、国守の代理となって任国に赴き、事務を取り扱った役人。めしろ。代官。
②中世、伊勢神宮に置かれた神職の一つ。また、社寺の執行(しゅぎょう)の下にあって雑務をつかさどった者。
③室町時代以降、広く代官の意。江戸時代には目付(めつけ)の称。
たいら‐の‐まさもり【平正盛】
平安末期の武将。清盛の祖父。白河法皇に信頼され、検非違使・追捕使として諸国の反乱を討ち、伊勢平氏興隆の道を開いた。生没年未詳。
源義親没後も河内源氏嫡流の醜い争いは続き、後継者は皆さんご存じの源為義(義親の四男、義朝の父)になります。この男も未熟で不祥事(京の治安を守るべき検非違使という立場でありながら宿敵美濃源氏の光信と合戦を構えたり、興福寺の悪僧を匿って鳥羽院から叱責されるなど)が絶えなかったようです。
これに引換え、平正盛の嫡男で、為義と同い年の伊勢平氏の当主忠盛は、伯耆守・越前守を歴任し、備前守在任中の天承2年(1132)には、白河に千体の聖観音を安置する巨大な得長寿院(とくちょうじゅいん)を造営し、その功績によって鳥羽院から内昇殿を許され36才で殿上人となる栄誉に浴したのです。えらい差ですな。但し、忠盛の昇殿を「未曾有のこと」と驚く貴族も少なくなかったと『平家物語』に書かれています。いわゆる妬みですな。

桓武平氏系図
得長寿院は鳥羽上皇(1103~56)御願寺の一つ。平忠盛(1096~1153)が造営した観音堂には十一面観音や等身聖観音千体が安置されており,現存する蓮華王院(三十三間堂)と同規模の建築であったといわれる。
摂関家・白河院・鳥羽院にも受けがよく西海の海賊討伐など数々の功績をあげた忠盛でしたが、仁平3年(1153)、公卿昇進を目前としながら58歳で死去します。こうして、嫡男・平清盛の出番がやってきたのです。
鳥羽院にも見捨てられた為義でありましたが、拾う神もあるものです。手をさしのべたのは摂関家の大殿(大臣の敬称)・藤原忠実(藤原頼長の父)でした。こうして強い主従関係で結ばれた仲間は「保元の乱」で運命を共にすることになります。
ところで、平清盛のライバル源為義の長男・義朝とはどんな人物だったのでしょう。
保安4年(1123)に生まれた。母は白河院近臣である藤原忠清の娘といわれる。
義朝は少年期に東国(関東地方)に下向したと見られ、上総氏等の庇護を受け同地で成長した。その際、義朝は「上総御曹司」と呼ばれた時期があるがこれは父・為義が安房国の丸御厨(みくりや=東国に進出していた伊勢神宮の荘園)を伝領していたことからその地に移住し、その後は安西氏・三浦氏・上総氏の連携の下に義朝は安房から上総国に移り上総氏の後見を受けるようになったことによるものと思われる。
そのため父とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、支配権をめぐって在地豪族間の争いに介入し、その結果、三浦義明・大庭景義ら有力な在地の大豪族を傘下に収める。長男・義平の母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野氏の娘との間には次男・朝長をもうけるなど、より)在地豪族と婚姻関係を結んだ。

源義朝画像(『平治物語絵巻』
河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の扇ヶ谷(おうぎがやつ)に館を構え、特に相模国一帯に強い基盤を持った。
長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安4年(1147)に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助(うまのすけ)を兼ねた。
河内源氏の受領就任は源義親以来50年ぶりの事であり、義朝は検非違使に過ぎない父・為義の立場を超越する事になる。
この大抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を背景とする為義らとの対立を意味していた。
仁平3年(平忠盛の亡くなった年)、義朝は中宮藤原呈子の雑仕女(ぞうしめ)常葉(常磐)と結ばれ、3人の男子(今若・乙若・牛若)をもうけた。常葉との結婚こそ、彼女が仕える美福門院・忠通派への接近という義朝の政治的立場の変化を象徴する出来事だったのである。
これで、都合三人の妻をめとったことになる。一夫多妻の時代とはいえ義朝も隅におけませんね。
保元元年(1156)7月の保元の乱の際に崇徳上皇方の父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、「後白河天皇」方として東国武士団を率いて参陣した。平清盛と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫ったらしい。そして攻撃の命が下された時のこと。
『愚管抄』は、この時の義朝の心境を次のように記している。
「義朝は合戦を何度も経験しているが、いずれも朝廷を恐れ、どのような咎を受けるかと胸に応えて恐れていた。今日は追討の宣旨を受け、敵に戦う心は何と清々しいことか」
と官軍として赴く事に喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど「後白河」方の中核となって戦った。
義朝はふがいない河内源氏を立て直そうと功を焦っていたのではないでしょうか。

鳥羽上皇画像
ぐかんしょう【愚管抄】
鎌倉初期、日本最初の史論書。慈円(藤原忠通の子)の著。7巻。神武天皇から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治の変遷を道理の展開として説明。
◆保元の乱
ほうげん‐の‐らん【保元の乱】
保元元年(1156)7月に起こった内乱。皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。しかし父や兄弟をを斬首するはめになった義朝は苦悩したでしょうな。
〈この騒乱の伏線〉
王位継承の争い:鳥羽法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となる手筈であった。
ところが、久寿2年(1155)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった、これが「後白河天皇」である。
崇徳院が頭にくるのも無理はありませんね。
この戦いの真相は、信西や美福門院、関白忠通の謀略で、鳥羽院の存命中に有力武士を動員して武力を固め、鳥羽院没後に頼長に圧力を加えて挑発し、崇徳・頼長を一挙に挙兵に追い込んだ作戦だったのです。

藤原頼長画像
(悪左府=非常に力が抜きんでいて、決して妥協をせず、相手との諍いも辞さないという意味だそうです)、頼長は厳格なあまり誤解されたイメージがあるようですね。

崇徳上皇画像

藤原家系図

天皇家系図
びふく‐もんいん【美福門院】
鳥羽天皇の皇后。藤原得子。中納言長実の娘。近衛天皇の母。(1117~1160)
→「平治の乱」は後述するとして→
◆政治の裏で糸を引いていた「後白河天皇」とはどんな帝だったのでしょう。タカナはこの方を風見鶏的あまのじゃくと称して、あまり、良い印象をもっておりません。
ごしらかわ‐てんのう【後白河天皇】
平安後期の天皇。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁(まさひと)。即位の翌年、保元の乱が起こる。二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。嘉応1年(1169)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。(在位1155~1158)(1127~1192)
後白河法皇のゆかりの寺院・長講堂(京都市下京区富小路六条本塩窯町)を訪ねてみました。平成24年2月26日の寒い日でした。

後白河法皇御尊像(重文)江戸時代の肖像彫刻:長講堂所蔵
-長講堂の歴史-
長講堂は、寿永2年(1183)に、後白河法皇の仙洞御所「六条殿」内の持仏堂として建立された。深<仏教に帰依した法皇が、長講堂創建に合わせて制作を指示し、念持仏として祀られた丈六の阿弥陀仏・観音書薩・勢至警薩の三尊が現在の本尊である。後白河法皇は永年の護持を願つて「長講堂起請五ヶ条」を定め、莫大な寺領を寄進したが、のちにこれは「長講堂領」と呼ばれて全国に拡がり、荘園史上最大の皇室御領として知られた。
建久3年(1192)法皇崩御ののちには、長講堂と寺領は皇女宣陽門院に譲られ、菩提を弔うため、法皇の御真影を安置する御影殿が建立された。その後戦乱や天災により寺域が狭まり、天正年年間の豊臣秀吉天下統一による京洛整備の際に、現在の位置に移転した。現在は、長岡京市粟生の総本山光明寺の所轄する西山浄土宗の寺院である。

長講堂その1 2012/02/26撮影

長講堂その2
-長講堂の寺宝-
◎本尊 阿弥陀如来像・観音菩薩像・勢至菩薩像(重文)
法皇が常に礼拝していた本尊・阿弥陀三尊像は、定朝の流れを汲む院尊の作で、三尊ともに重要文化財である。左右の観音・勢至両菩薩は片足を下した状態で、これは衆生を救おうとする姿を表している。
じょうちょう【定朝】
平安中期の仏師。康尚の子(または弟子)。治安2年(1022)法成寺金堂の諸像造立の功により仏師として初めて法橋(ほっきょう)に叙せられ、その後、興福寺の造仏で法眼(ほうげん)に進んだ。平等院鳳凰堂本尊阿弥陀像は現存する唯一の作例。王朝貴族の好みにかなった豊麗な日本的様式を創造、定朝様として長く日本の仏像の典型となった。( ~1057)
◎長講堂で拝見した特異なものは『過去現在牒』でありましょう。
後白河法皇直筆の『過去現在牒』には、神武天皇から安徳天皇に至る歴代天皇の御名に始まり、源義朝、平清盛、源義行(義経)などの武士から、祗王、祗女らの白拍子、あるいは歴史に名を残さない人物の名も含め、法皇と因縁のある人々の名前が何の脈絡もな<親書されている。晩年の法皇が、縁のある人々の行<末を案じ、念持仏に救いを求めた証である。この過去牒のことは平家物語の中にも記されている。
義経を源義行と改名したのは「義経追討の宣旨」を出した後ろめたさがあったからではと推測しました。
◎聖徳太子立像と胎内文書
阪神淡路大震災による本堂損壊修理の際、聖徳太子像の胎内から、元禄15年(1702)に書かれた文書が発見された。不思議ですね。
◎百万遍大念珠
蛤御門の変により焼失した後、慶応二年(1866)に完成した長講堂の建物の余材木で作られたもの。数メートルもある。
◎阿弥陀三尊立像
阿弥陀三尊立像は、江戸時代に存在した長講堂の塔頭・法光庵の本尊である。光背の裏には、安永元年(1772)の大火の記録が朱書きされている。
他にも文化財がありますが省略します。

長講堂その3

長講堂その4
★後白河法皇の恩人に対する背信行為★
①平治の乱(平治元年=1159)の時、義朝は、平清盛が熊野詣に出掛けている隙に、後白河上皇と二条天皇を幽閉しましたが、反転攻勢にでた清盛に救われ乱は収束しました。京都の治安は回復され、蓮華王院等まで造営してもらっている。その他、様々な配慮がなされ、清盛から多大な恩を受けたのです。
建春門院・平滋子を女御にして高倉天皇をもうけ、また、高倉天皇と建礼門院・平徳子との間に孫の安徳天皇が生まれ、順調な間柄だっただろうに。
②平家の勢力が強くなると、「鹿ヶ谷事件」で清盛を倒す謀議に連座した。
『平家物語』はこの謀議を次のように表現している
東山の麓、鹿の谷と云ふ所は、後ろは三井寺に続いてゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山荘あり、かれに常は寄り合ひ寄り合ひ、平家滅ぼさんずる謀を廻らしける。或る時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息、浄憲法印御供仕る。その夜の酒宴に、この由を浄憲法印に仰せられければ「あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。只今漏れ聞えて、天下の大事に及び候ひなんず」・・・
ししがたにじけん【鹿ヶ谷事件】
治承元年(1177),俊寛・藤原成親 (なりちか)・藤原師光 (もろみつ)(西光)ら後白河法皇の近臣が,鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平家討伐を謀議した事件。多田行綱の密告によって発覚,師光は死罪,成親・俊寛らは流罪。
③寿永2年(1183)7月28日、源義仲・行家が入京し、平家を追い払うと、「平氏追討宣旨」を下すと同時に、30日、藤原経宗・九条兼実・三条実房・中山忠親・藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉』同日条)。議題は平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣についてだった。
勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階が与えられることになった。
官位を授かるが、義仲は朝廷の作法も知らぬのに皇位継承問題へ口出しなどした。また、多くの兵士が都に常駐し、食糧事情が悪くなり、義仲の家臣や兵の乱暴狼藉が目にあまると今度は、頼朝に「打倒義仲」の宣旨を下したのです。田舎者育ちで不作法すぎた義仲も哀れですね。
みなもとの よしなか【源義仲】
( 1154~1184 ) 平安末期の武将。為義の孫。木曾山中で育てられ,木曾次郎と称した。1180年,以仁王 (もちひとおう)の令旨に応じて挙兵し,平維盛の大軍を俱利伽羅 (くりから)峠に破り,平氏を都落ちさせて入京。勢威を振るったが後白河院と対立,源義経・範頼軍に攻められて,近江粟津で敗死した。木曾義仲。朝日将軍。
木曽義仲は怒り狂って、寿永2年11月19日、法住寺殿を襲撃した。院側は源光長・光経父子が奮戦したものの完膚なきまでに大敗し、後白河院は法住寺殿からの脱出を図るが捕らえられ、摂政・近衛基通の五条東洞院邸に幽閉された。院政の象徴だった法住寺殿も炎上した(法住寺合戦)。

木曾義仲像(徳音寺蔵)
④翌寿永3年(1184)正月20日、義経・範頼は伊勢で合流し都を目指す。迎え撃つ義仲は増水した宇治川の橋を落として対峙するが、義経軍は川を果敢に突破し、義仲軍を蹴散らした(宇治川の戦い)。義経は初陣で見事に勝利を飾り、京の人々から喝采された。
解放された後白河院は平氏の残党狩りを指示する傍ら、8月6日、義経を、京都の治安維持を任務とする検非違使・左衛門少尉に任じている。頼朝はこの人事にすこぶる機嫌を損ねたという(『吾妻鏡』)
この人事は義経・頼朝との離間工作ではないかと疑いたくなります。
⑤源平合戦の最大の功労者、義経の悲劇
皆さんご存じの通り、一ノ谷の戦い・屋島への奇襲攻撃・壇ノ浦の戦い と平氏を壊滅に追い込んだヒーロー義経を待っていたのは、梶原景季・景時らの讒言により東国武士団の結束を乱す輩という烙印でした。義経は兄へ弁明書(腰越状など)を繰り返し出し、叛意がないこと訴えますがついに受け入れられることはありませんでした。恩賞の領地も与えられず、冷酷な兄の仕打ちに義経もついに切れてしまいます。
かじわらかげとき【梶原景時】
( ?~1200 ) 鎌倉初期の武将。通称平三。石橋山の戦いで源頼朝を救って重用された。弁舌に巧みで,源義経を讒 (ざん)して失脚させ,のち頼家に結城朝光を讒したが,三浦義村らの弾劾を受けて鎌倉を追放,狐崎で子の景季とともに戦死。
爆発した義経は後白河法皇へ頼朝追討の発令を求めたのです。従わなければ皇室全員を引き連れ九州で挙兵すると告げられ、法皇は「頼朝追討」の宣旨を下した。しかしその直後、朝敵にされて怒った頼朝から、数万の大軍を都に送ると脅されるや、今度はすっかり態度を変えて、頼朝に求められるまま6日後に「義経追討」の宣旨を下したのです。 何という変節ぶりか。 大天狗(ひどく高慢なこと。また,その人)と呼ばれる所以ですわ。
※天下の帝王が頼朝・義経兄弟の仲を取り持つ事も出来たのではとタカナは思っています。
◆今様に耽溺した後白河法皇のもう一つの顔◆
後白河院が編纂した『梁塵秘抄』について少し述べてみたいと思います。
「梁塵=塵が山となる」という考え方は、日本文学に大きな影響を与えた白居易の詩文集『白氏文集』に見られ『古今和歌集』仮名序でもふれられている。
『白氏文集』第二十二「続座右銘」から「千里は足下より始まり、高山は微塵より起こる。君が道も亦此の如く、之を行ひて新たなるを貴ぶ」
『古今和歌集』仮名序から「遠き所も、山で立つ足もとより始まりて、年月をわたり、高き山も、麓の塵泥(ちりひぢ)よりなりて、天雲たなびくまでおひのぼれるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。」
◇.今様
●雪とはいっても、常に消えない壱岐(ゆき)の島。きえぬといえば、蛍こそ消えない火をともしているね。しとと-びっしょり-という名前なのに全然濡れていない鳥もいるね。一声鳴いても千鳥とかいう鳥もいるよ。(16)
『梁塵秘抄』巻一で今様に分類されている一例。狭義の今様とされる。「雪の島」に地名「壱岐の島」(現在は「いきと読む」)を掛け「巫鳥」(ホオジロ科の小鳥、ほおじろ、あおじ、くろじなど類似の鳥を含めた総称)に副詞「しとど」(ひどく濡れるさま)を掛けた言葉遊びの歌。
●.ばくちうちが好むものは、平骰子(ひょうさい)、鉄骰子(かなさい)、四三骰子(しそうさい)。その骰子(さいころ)を誰が上手に打てるのか。文三、刑三(ぎょうさん)、月々清次(つきづきせいじ)とかいう連中さ。(17)
博打の今様の一例で、博打の骰子(さいころ)と名人を並べたてた歌。13世紀に入って七半、四一半などという、出た目によって勝負が決まる賭博が普及する以前の賭博は、双六に財物を賭けて勝負を争うものであった。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、賭博は大流行する。
後白河の曾祖父にあたる白河院は、自らの心に従わないものとして、「加茂川の水、双六の賽(さい)、山法師(やまほうし=比叡山延暦寺の僧徒。特に,院政期の僧兵)」をあげているし、この頃しばしば賭博禁止の令がだされている。この歌はまさに「今様」-最先端-の風俗を歌っているといえる。
梁塵秘抄巻第二
◇法文歌
●仏はいつもおいでになるがはっきりとお姿が見えないことこそ、しみじみ尊く思われる。人の物音のしない暁にほんのり夢に現れなさる。(26)
静かで物音のしない道場で、仏に花や香をお供えし、心を落ち着けてしばらくの間でも『法華経』を読めば、きっと仏はお姿をお見せになるのだ。(102)
前者は仏歌、後者は法華経二十八品歌のうち法師品の歌である。孤独と静けさの中で仏を思う人の前に、劇的に出現する仏の尊い姿は、仏教が広く浸透していた時代の人々に深い感動を与えたのですね。
菊池寛は、しばしばこの今様を色紙に書いたという。川端康成は菊池寛の死後、その色紙を見たことに触発されて、小説『反橋』の一部や、『船遊女』にこの今様を取り入れている。川端作品の中で、それぞれ父母の面影と重ねられており、親子の巡り会いの難しさが、物哀れ(なんとなくあわれを感じる・こと・さま)な今様の歌詞と巧みに響き合っている。
●仏も昔は人間だった。われらも最後には仏になるのだ。仏に成るべき性質を本来備えている身だと知らずに、仏道をなおざりにしているは悲しいことだ。(232)
『平家物語』巻一・祇王の章段には白拍子の祇王がこの今様を歌い替えた話がある。
祇王は平清盛に愛され時めいていたが、やがて別の白拍子・仏御前が清盛の寵愛を得るようになると、屋敷から追い出されてしまう。翌年になって祇王は、清盛と仏御前の前で今様を歌うよう命ぜられる。祇王は泣きながら次のように歌った。
「仏も昔は凡人であった。われらも最後には仏に成れるのだ。どちらも仏性を備えている身であるのに、分け隔てをするのが悲しいことだ-私も仏御前と同じ白拍子であるのに、清盛様が私たち二人を分け隔てして扱うのが悲しいことです。」聴くものをして涙する感動を覚えますわ。
◇四句神歌・神分の一首
●熊野へ参詣するには、紀伊路と伊勢路のどちらが近いのだろう。どちらが遠いだろう。広大な慈悲を垂れる神のもとへ参る道だから、紀伊路も伊勢路も遠くはないよ(256)
熊野の地は、険しい山岳が多く、しかも南海に面している自然環境から、神霊や死者の霊がこもる秘境と捉えられ、古くから修験道の霊場として信仰を集めた。熊野には本宮・新宮・那智という三社があったが、平安時代以降、熊野三山と称されて、共通の神々がまつられるようになった。
宇多天皇(867~931)の頃から貴族の参詣が見られるようになったそうですが、熊野は都から遠く山深いため参詣する人はまれだったようである。その後、院政期に入り、熊野詣は急激に盛んになる。なかでも後白河院の熊野詣は、歴代上皇と比べても最も多い33回に及んだそうです。異常なまでの御執心にて候。
じんぶん【神分】
仏事法要の部分名。広狭2義に用いる。法要の導師が,諸天諸神のためにその解脱増威を祈願する句を唱えるのが狭義の神分で,〈総神分(そうじんぶん)〉とも称する。〈大梵天王帝釈天王を始め奉り……〉などと名号(みようごう)を挙げ,〈……に至るまで,離業証果(りごうしようが)せしめ奉らんがために,総神分に般若心経,大般若経名〉などと結ぶ。仏教では,神の世界は迷界の六道の一つで,神通力はあるものの業苦を離れられないため,功徳を求めて法要の場に来臨していると考えるので,その神々のために経文や経題を唱誦するのである。
●遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(359)
・・・一心に遊んでいる子どもの声を聞くと、私の体まで自然に動き出してくることだよ。
『梁塵秘抄』中、最も著名な一首である。
ある程度の人生経験をつんで老年にさしかかった人物が、子どもの声に引き込まれる様子が生き生きと捉えられている。
大正初期の詩歌作品には、この今様の歌の影響を受けたものが多くある。
うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌(いわ)の陰よりのびあがり見つ
(斎藤茂吉)
一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ
(北原白秋)
おもてにて遊ぶ子供の声きけば夕かたまけてすずしかるらし
(古泉千樫)
■ 梁塵秘抄口伝集巻第十◇今様耽溺の日々-後白河院の回想
その昔、十歳あまりのときから今にいたるまで、今様を好んで練習を怠けることはなかった。時がゆっくりと流れるのどかな春の日には、枝に咲いたり庭に散ったりしている花をながめ、鶯のさえずりや郭公(ほととぎす)の鳴く声を聞いても、今様の心を会得するきっかけとし、物寂しい秋の夜には、月を味わい、虫の声々に哀れを添えるように今様を歌った。夏の暑さ、冬の寒さもかえりみず、四季のいつでも時をかまわず、昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かさない夜はなかった。
・・・その間、人を集めて、舞を舞い、演奏し、歌う時もあった。四、五人、あるいは七、八人の男女が集まって今様だけを歌うこともあった。
・・・また私一人で『雑芸集』を広げて、四季の今様・法文歌(ほうもんのうた)・早歌(そうか)にいたるまで、書いてある順番に歌い尽くすこともあった。・・・あまりに無理をしたので、喉が腫れて湯水を飲むにも苦労したが、とにかく何とか歌い続けた。
・・・また、神崎の遊女のかねが、女院(後白河院の母・待賢門院)のところに参っていたので、やって来たときは、女院にお願いして、かねに歌わせて今様を聞いていたところ、「そちらにばかり呼び寄せては困ります。時々はこちらでもどうして聞かずにいられましょうか」と言って、一晩おきに差し上げましょうということになった。
・・・明け方に帰してもまだ私が歌っていたのを、かねの部屋は向かい側だったので、夜があけてもまだ鼓の音がやまない様子に「いつの間に休むのでしょう」と驚きあきれて申したことだ。これほどに今様を好んで、私は六十歳に至った。
タカナは『梁塵秘抄』を読んで驚きました。神仏に対する並々ならぬ信仰心をもち、花鳥風月の情緒から人情の機微にいたるまで今様を歌われた方がどうして、権力にこだわり人心を惑わしたのか?このパラドックスは不思議というほかありません。