-初期の清和源氏は武門の鑑と謳われた-

源氏・平家は初めから犬猿の仲ではなかったのです。平安末期の源平合戦という先入観が我々の思考を妨げているからでしょう。
その好例といえるのが、軍神と崇められた八幡太郎こと「源義家」である。彼の父は「源頼義」、母は「平直方」(たいらのなおかた)の娘で、いわば、源平両氏の共存共栄をはかる姻戚関係だったのです。つまり、源義家は平直方の外孫にあたる。
源頼義は父「頼信」とともに平忠常の乱を鎮圧した名将ですが、この時、平直方が頼義の武勇にすっかり惚れ込んで、娘婿にしたばかりか、鎌倉の地まで譲ったそうな。

この鎌倉の地に幕府を開いた「頼朝」は頼義・義家の直系の子孫、しかも平直方は北条氏の祖とくれば、何という深い因縁でしょう。従って、源氏が東国に政権を樹立しえた背景には多大な平家の貢献があったわけです。後の源平騒乱を思えば、まことに、皮肉な運命と言わねばなりません。


武門源氏系図

《清和源氏の礎を築いた主な人々》

1.源満仲
安和の変での活躍が認められ、その恩賞で正五位下に除せられた。藤原北家の深い信任を得て、京における武士の第一人者の地位を獲得したのである。
その後、多田の荘(現兵庫県川西市)に拠点を構えた。この地を選んだ理由は京に近く有事の際、すぐに武士を動員できること。米が沢山とれること。周辺に銀山があり、軍資金を確保できること。山々に囲まれた(盆地)天然の要害の地であることなどであったらしい。ここで武家の一大拠点を築き、清和源氏の祖と称される。
彼は後に出家し多田院という寺院を建立した。これが、多田神社の前身であります。

あんなの へん【安和の変】
安和2年(969)藤原氏が,左大臣源高明・橘繁延らに皇太子廃立の企てありとして,左遷・流罪に処した政変。源満仲の密告に乗じた他氏排斥の謀略で,以後藤原氏の全盛期を迎える。

源満仲肖像画 提供:多田神社
みなもと‐の‐みつなか【源満仲】
清和天皇のひ孫。平安中期の武将。経基の長子。鎮守府将軍。武略に富み、摂津多田に住んで多田氏と称し、多数の郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた。多田満仲(ただのまんじゅう)。(912~997)

JR川西池田駅前に立つ源満仲公銅像   2012/09/05撮影

2.源頼光
みなもと‐の‐よりみつ・らいこう【源頼光】
平安中期の武将。満仲の長男。摂津などの国司を歴任。左馬権頭。勇猛で、大江山の酒吞童子征伐の伝説や土蜘蛛伝説で知られる。(948~1021)

みんなが知っているようで、謎の多い大江山の鬼伝説―源頼光の鬼退治―

源氏を標榜した足利将軍家の意向をうけた「頼光=源氏の功名譚」として、怪物退治物語の代表作、「大江山の鬼伝説=酒呑童子物語」が生まれたそうです。それは、当時の人々の願望としての「王権説話」、「神仏の加護」など多様な内容をもりこんでいる。

酒呑童子は頼光に欺し殺される。頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。
このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。
 「鬼に横道はない」酒呑童子の最後の叫びは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫び声であったのかもしれない。
この表現は、自然界を破壊し続けている現代人への警鐘でもありましょう。
参考:大江町鬼の交流博物館資料

『大江山絵巻』頼光の鬼退治

この鬼退治の実態は、寛仁元年(1018)3月、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王(坂田金(公)時、渡辺綱、臼井貞光、ト部季武)らとともに6人で摂津国大江山(大枝山)へ向かい夷賊討伐を行ったものである。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書があるそうな。


源家宝刀・鬼切丸 提供:多田神社
ここで、
刀剣の下に掛けてある、珍しい武器に注目して下さい。この武器は切ると言うより、突き刺すもので、グリップ部分には密教で使う法具・五鈷杵(ごこしょ)が付いています。邪念を祓い、法力で敵(鬼=夷賊)を倒そうとしたと思われる。

五鈷杵:密教で一切の煩悩,仏敵を破り,菩提心を表す法の武器とされる

京都市西京区の山陰古道にある「首塚大明神」 2009/06/27撮影
大明神(神号の一つ。明神をさらに尊んでいう称。)とは悪鬼に敬意を表していることが面白い。


神社の大木には落雷した痕がありました。

3.源頼信
みなもと‐の‐よりのぶ【源頼信】
平安中期の武将。満仲の3男。鎮守府将軍。兵法に通じ武勇で名高く、平忠常の乱を平定し、美濃守。晩年、河内守となり、河内源氏の祖。(968~1048)

4.源頼義
みなもと‐の‐よりよし【源頼義】
平安中期の武将。頼信の長男。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。(988~1075)

5.源義家
みなもと‐の‐よしいえ【源義家】 ‥イヘ
平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。(1039~1106)

義家を除き、4人に共通するのは概して長寿であることです。平安時代に、80才前後まで生きるとは珍しいのでは。生命力が強かったのですね。

源頼信・頼義にまつわる有名な説話があります。-以心伝心の妙技で馬盗人を射殺した武人の父子-
源頼信朝臣の男頼義、馬盗人を射殺せる語(こと)(『今昔物語』巻第25第12話)

父頼信の屋敷に東国から良馬が到着したと聞き、頼義は豪雨をついて父邸を訪ねた。久しぶりの訪問にただちに来意をさとった頼信は、子がまだ何も言わないうちに「明朝馬を見て、気に入ったら連れて行け」と告げた。
その夜、頼義は父邸に宿直した。夜半、盗人がその馬を盗んで逃げた。犯人は東国の者と判断した頼信はただちに関山へと馬を走らせた。頼義もまったく同様に考え同様に行動した。関山で盗人の馬の足音を聞いた頼信はとっさに「射よ、あれや」と叫ぶ。その声が終わらないうちに弓の音がした。盗人は射殺され、馬は取り戻された。頼信は褒め言葉ひとつ言わなかったが、翌朝頼義に与えられた馬には立派な鞍が置かれていた。褒美のつもりだったのだろうか。

作者は、最後に次の言葉で締めくくっている。「あやしき者(貴族から見て卑しい、身分が低い、粗末である。という意味もある。)どもの心ばへなりかし。つはものの心ばへはかくありける、となむ語り伝へたるとや。」武士の心構えは、かくありたいと語り伝えられている、というのです。
摂関家に仕えて、手柄を立てなければならなかった、武士の立場が分かりますね。

◆それでは、清和源氏発祥の地、「多田神社」-兵庫県川西市多田院多田所町-を訪れてみましょう。


多田神社の航空写真  提供:多田神社
ここは、周囲を見回ると城郭のような形態をなしていることが分かります


多田神社境内図:境内16000坪に、内廓外廓の二重構造になっている。

当神社は、天禄元年(970)に創建され、元多田院とも、また、多田大権現社とも言われ、関西日光の称ある大社です。(昔は寺院であったが、神仏分離令により神社となった。)
御祭神は、第56代清和天皇のひ孫贈正一位鎮守府将軍源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公をお祀りしていることから、源氏発祥の地と言われています。
五公が国家の重臣として尽くされた功績は我が国史上鮮やかに輝いています。満仲公は武門の棟梁として、国家鎮護の大役を果たされたのみならず、沼地を開拓して多くの田畑を造り、又河川を改修して港湾を築き、又鉱山事業など殖産興業に力を注ぎ、国力の増進と源家繁栄の基礎を築かれました。
又頼光公の鬼賊退治、頼信公が平忠常を討伐して関東を平定し、又頼義、義家両公が前九年、後三年の両役に自ら大軍を率いて奥羽(東北地方)におもむき、現地の豪族を討伐した事など、皆同じく畏敬するところであります。従って当社は、武運長久の勅願社として、又家運隆昌、厄除開運の守護神として崇敬されている大社であります。
現在の社殿は、徳川四代将軍家綱公の再建に依るものであります。

以上は「多田神社」HPによる説明文です。


多田神社その1 西門   2012/09/05撮影


多田神社その2 六所宮(住吉大明神・稲荷大明神・天照光大明神・加茂大明神・春日大明神・熊野権現)室町及び江戸期に再建されたもの。各地の祭神を一所にまとめるとは合理的ですな。


多田神社その3 無患子(むくろじ):兵庫県指定記念物、千年たっているそうです。元気ですな。



むくろ じ【無患子】
ムクロジ科の落葉高木。山地に自生し,庭木ともする。葉は大形の羽状複葉。雌雄同株。夏,枝頂に淡緑色の小花多数を円錐状につける。果実は球形で黄褐色に熟し,黒色の種子は追い羽根の球や数珠 (じゆず)に用いる。果皮はサポニンを含み,石鹼 (せつけん)の代用にされた。ツブ。ムク。ムクロ。ムクロンジ。


多田神社その4  昭和天皇在位50年に奉祝記念植樹されたもの。
境内には、秩父宮・三笠宮など皇族方の記念植樹も見受けられました。


多田神社その5  南大門から猪名川に架かる橋を見る。


多田神社その6  南大門


多田神社その7 源賴光公・大江山鬼退治の歌看板


想像力がたくましい。面白い歌を考えましたね。


多田神社その7   隨神門(国指定)    

多田神社その8   拝殿(国指定)

※日本有数の神社とあって、春季大祭には、源氏祭・懐古行列など種々の催しで賑わうようです。

平成8年4月、多田神社で第65代横綱貴乃花・第66代横綱曙の奉納土俵入りがおこなわれました。


第65代横綱貴乃花の奉納土俵入り写真  


第66代横綱曙の奉納土俵入り写真


多田神社その9 平成8年4月に二人の横綱が記念植樹したもの。


平成17年の源氏祭に特別出演された、俳優・草刈正雄さんの写真。隣の美女は誰かな?

◎来年の源氏祭はタカナも行ってみたいな。(*^_^*)

◆ 宝物殿は社務所の宮司or禰宜さん?の特別なお計らいで、見学させて戴きました。自ら案内役をしていただき、本当に感謝しております。

屋内は少し薄暗い。でも収蔵品の保存にはむいているかも。印象に残ったものをいくつかご紹介いたしましょう。

①多田神社文書(国指定)1120点は非公開でありました。桐の箱に厳重に収蔵されており、残念ながら見られませんでした。


多田神社文書の写真  提供:多田神社

②明治時期に描かれた源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公の肖像画

③戦国期の 笹をかたどった甲冑。笹りんどうは多田神社の家紋である。

④江戸時代の境内図、今は無くなっている鐘楼が描かれていました。つまり、寺院だったということです。神仏習合の形態。

⑤源家宝刀については前述いたしましたので、省略します。

⑥祖先を清和源氏とする徳川家の詳細な家系図。まるで、曼荼羅のようでした。源義国(源為義の兄弟)から義重(新田氏)へ分かれていった筋に家康があたるらしい?

徳川第5代将軍綱吉が揮毫した、掛け軸 。「胎 謀」 の二文字だけです。
意味は「はかりごとをはらにかくす=胸中にあるものを、不用意に喋ってはならぬという、自身への戒め」と解釈いたしましたが、皆さんはどう・・・でしょうか?

⑧「後三年の役絵巻」、これは国宝ですよ。大変貴重なもので、東京国立博物館にあるのと異なるものが多田神社に収蔵されているとなれば、ミステリーです。

「美女丸伝説」の絵など、 他にも多数陳列されていましたが、記憶に限界がありますので
これで終わりたいと思います。


短時間でしたが、実りの多い見学となりました。皆さんも行かれたら、得るものがあると存じます。