-平安時代中期から後期にいたる混乱-

承平・天慶の乱をはじめとする内乱を鎮圧・治安回復に活躍し、頭角を現してきたのが桓武平氏・清和源氏の流れをくむ「兵=つわもの」という、殺戮専門集団でありました。彼らのことを元木泰雄・京都大学大学院教授は「軍事貴族」と表現されています。
「兵=つわもの」が登場したことは日本にとって幸いしたと思っています。それは各地で頻発していた海賊・盗賊・乱闘・放火などを鎮圧する役割の他、対外的・軍事的に重要な位置をしめるに至ったと思うのです。
平安末期における源平合戦の権力闘争は武家政権を生みました。彼らの存在は後年、東アジア情勢の大きなうねりが日本を覆い尽くし、存亡の危機に立たされたとき発揮されることになります。

◆この時期の主な内乱を幾つか併記しておきます。

じょうへいてんぎょう の らん【承平天慶の乱】
10世紀前半,承平・天慶年間,関東で平将門 (まさかど)が,瀬戸内海で藤原純友 (すみとも)が,ほとんど同時に起こした反乱。

たいらの まさかど【平将門】
( ?~940 ) 平安中期の武将。通称,相馬小二郎。父は良持とも良将とも。935年,所領争いなどから叔父国香を殺し,一族との抗争を招く。また,土豪間の紛争に巻き込まれて,しばしば兵を動かす。常陸・上野・下野の国府を占領するに至って東国に独立国家を作る野望を抱き,下総猿島郡石井 (いわい)に王城を営んで百官を置き,新皇を称したが,平貞盛らに討たれた


ふじわらの すみとも【藤原純友】
( ?~941 ) 平安中期の地方官。伊予掾として任地に下ったが,瀬戸内海の海賊を率いて日振島を根拠地に乱を起こし,瀬戸内全域と九州の一部を支配。警固使橘遠保に誅せられた。→ 承平天慶の乱

②平忠常の乱

たいらのただつね の らん【平忠常の乱】
平安中期,関東で起こった内乱。1028年,平忠常は上総・安房の国府を襲い,房総を占拠したが,31年,追捕使源頼信に戦わずして降伏した。これ以後,関東では平氏が衰退し,清和源氏が進出した。

③前九年・後三年の役

ぜんくねん の えき【前九年の役】
平安末期,陸奥の豪族安倍頼時・貞任 (さだとう)・宗任 (むねとう)らの反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。1051年から62年の12年にわたる。後三年の役とともに,源氏が東国に勢力を築く契機となった。→ 後三年の役

ごさんねん の えき【後三年の役】
平安後期,1083年から87年にかけて,奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが,陸奥守として下向した源義家が藤原清衡とともに,清原家衡・武衡を金沢柵 (かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり,義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。→ 前九年の役

◆日本史で欠落しやすいので、平安時代の東アジア情勢・勢力分布を少し整理しておきましょう。

前回まで連載しました『源氏物語』の中にも高麗について少しふれている箇所があります。
第1帖桐壺◇若宮の将来を予言-高麗(こま)の人相見、これは光源氏の将来を占う場面です。

若宮七歳のころ、来日した高麗(こま)の使節団のなかによく当たる人相鑑定家がいると帝は聞き、外国人を宮中に招くのは宇多天皇が禁じていたから、内密に若宮を使節の宿舎に行かせた。

後見役の右大弁(事務次官級)の子として鑑定してもらうと・・・「国家元首となり、帝王の位に昇る人相であるが、その方向で占うと、国が乱れ苦しむ事態が起こるようだ。では、国家の重臣となり、国政を補佐する方向で占うと、どうもそれで終わるようにも見えない」と言う。→女性とあらゆる色模様を演じるう超人ですから、鑑定は難しいでしょうね。お笑い。

ここに出てくる高麗についてどれだけの日本人が知悉しているでしょうか?

こうらい【高麗】
①王建が建てた朝鮮の王朝(918~1392)。都は開城。936年朝鮮半島を統一し,仏教を尊崇して栄えたが,13世紀に元に服属,14世紀に倭寇 (わこう)の侵入で弱まり李成桂 (イソンゲ・りせいけい)に滅ぼされた。
② かつて日本で,朝鮮の別名。こま。

こま【〈高麗〉・狛】
①古代朝鮮の一国,高句麗 (こうくり)のこと。また,広く朝鮮半島の地をさす語。
②他の語の上に付いて,高麗 (こうらい)① から伝来した意を表す。「―楽 (がく)」「―錦 (にしき)」

1.古代朝鮮半島の勢力図


右から古朝鮮時代(紀元前1世紀頃)→三国時代(5世紀末)→南北朝時代(8世紀頃)

2.三国時代から統一新羅・渤海まで-朝鮮半島の勢力図


三国時代勢力地図(6世紀頃)


渤海と統一新羅時代=南北朝時代(8世紀頃)

《渤海と日本の交流》
朝鮮半島では新羅が668年に高句麗を滅ぼし統一新羅を樹立した。698年に中国の東北からロシア極東に住んでいた「靺鞨(まっかつ)」が高句麗の遺民たちと共に唐軍を退け振国を樹立。713年に振国の大祚栄(テジョヨン)が唐から渤海郡王に封じられ、以後、渤海と称した。
位置;中国東北地方の黒龍江省、吉林省、遼寧省、北朝鮮の咸鏡北道、ロシアの沿海州
渤海は当初、新羅、唐に対する牽制の意味合いから日本と頻繁な交易を図ったが、次第に儀礼的、商業的な意味合いが強くなっていった。

日本は新羅と30回以上の交流があるなど良好であったが、属国とみなしていた新羅が対等な関係を求めてきたことなどにより、渤海の要請により新羅討伐計画を立てるまでにいたる。

日本は渤海を属国とみなして渤海からの使節を大いに歓待したため財政的負担が大きくなり、824年に使節の受け入れを12年に1回と制限した。 最初に727年に来航して以来、919年までの約200年の間に36回もの渤海国使が来航し、日本からは14回使節団を送っている。

秋から冬は北西の風を利用して渤海から日本に、春から夏は南風を利用して日本から渤海に航海した。この当時の船は平均速度は約3ノット、距離は約800キロのため、7日から10日の航海だったといわれる。
秋に渤海使節団105人を乗せた本船はポシェット湾(現在の豆満江)を出港し、7~10日後に越前~能登に入港した。
-貿易内容-
渤→日;毛皮、蜂蜜、薬用人参、三彩陶器、シルクロードを通じた品々など
日→渤;絹、綿、黄金、水銀、扇など
毛皮は朝廷の儀式に使われた。虎とヒョウの毛皮は武官の用品として使用された。
水銀は青銅仏の製作に使われたほか、不老長寿の薬として珍重されたという。

日本の文献
:『続日本後紀』に記載されている、渤海との交流足跡の一部を紹介しておきます。
嘉祥{(848.6.13~851.4.28)。承和の後,仁寿の前。仁明 (にんみよう)・文徳 (もんとく)天皇の代。}2年戊辰、本日、能登国へ遣わした存問渤海客使少内記県(そんもんぼっかいきゃくししょうないきあがた)犬養大宿禰貞守(いぬかいおおすくねさだもり)らが、飛駅により客徒らがもたらした啓・牒案を奏上した。渤海国王の啓は次のとおりである。

「渤海国王彝震(いしん)が申し上げます。・・・古来隣好関係にあり、礼に即して交流してきておりまして、一年であっても交渉を欠くと、疎遠になる恐れがあります。まして時が経過して八年が過ぎ、東南の風に向かい日本国を慕うものでして、どうして交流せずにじっとしていられましょうか。謹んで渤海国の産物を準備し、使節に託します。・・・ 」
※このように、友好関係にあった渤海のことを知ったのは韓流ドラマ『大祚栄』を見たおかげです。恥ずかしい話ですが、タカナもごく最近まで知らなかったのです。

ひ えき【飛駅】
①律令制下,緊急の公用を伝える使い。駅馬を使用する。
②中世以後,騎馬・徒歩による緊急の連絡。また,その使者。はやづかい。飛脚。早馬。早打ち。

3.高麗を含めた東アジアの情勢


高麗時代版図(10世紀~14世紀頃) 


契丹(遼)・宋・高麗の版図(12世紀頃)

◇契丹(遼)・宋・高麗の関係を知る手掛かりになったのは主に韓流ドラマ『千秋太后(チョンチュテフ)』でありました。この勢力図に「女真」という名が記されていますが、ご存じでしょうか。この名が日本史上に登場するのは平安時代後期(11世紀)、「刀伊(とい)の襲来」であります。

「刀伊」など、聞き慣れない人が多いのではないでしょうか。

※ところで、現代中国の地図に遼東半島という名がありますが、これは契丹が建国した「遼」の東にあたることからついた名称です。渤海という海の名称も、同様ですね。

りょう【遼】
渤海を滅ぼし,契丹 (きつたん)族の耶律阿保機 (やりつあぼき)が建てた国(916~1125)。モンゴリア・中国東北部・華北の一部を支配,宋から燕雲十六州を奪い澶淵 (せんえん)の盟を結ぶ。金と宋に挟撃されて滅んだが,王族の耶律大石が中央アジアに逃れて西遼を建国した。

とい【刀伊】
〔朝鮮語で「夷狄」の意〕
中国大陸,沿海州地方から黒竜江省にかけて占居していた女真族。1019年,壱岐・対馬に入寇し博多湾まで襲来したが,大宰権帥藤原隆家と大宰府軍の活躍によって撃退された。

じょしん【女真】
10世紀以降,中国東北地方東部に住んだ,狩猟・牧畜を主とするツングース系の民族。粛慎 (しゆくしん)・靺鞨 (まつかつ)と同系統。12世紀初め完顔 (ワンヤン)部の阿骨打 (アクダ)が,遼から自立して金 (きん)を建国,その系譜を引くヌルハチは17世紀初め後金 (こうきん)(のちに清朝に発展)を建てた。女直 (じよちよく)。


女真族の末裔満州族その1

女真族の末裔満州族その2、
満州族は中国東北三省に1000万人も住んでいるそうです。

■馴染みのない名称がならんで、戸惑われるでしょう。島国の宿命でもありますが、外交下手・情報戦略に欠けた日本は今に始まったことではないことを知る必要があるからです。

「刀伊(とい)の襲来」に話を戻しましょう。寛仁3年(1019)4月、公卿たちが色々な懸案について協議しているところへ、九州太宰府から飛駅使(早馬)が急報をもたらした。
その報告(7日付)には、刀伊の国の賊船50余隻が壱岐に来襲し、守の藤原理忠(まさただ)を殺害し、島民を捕え、転じて筑前怡土(いと=福岡県糸島群)郡に来襲したとあった。それに加えて、太宰権帥(だざいごのそち)・藤原隆家から大納言実質(さねすけ)宛ての書状が届けられた。

隆家からの書状(8日付)を開いてみると、「刀伊の船が対馬に来て、殺人放火した。そこで要所を警護し、兵船を発し、飛駅言上する」とだけあったが実質は事件の大要をこれで承知したのである。

都の大臣は緊急の陣定(じんじょう・じんのさでめ=評議)を行い彼らが太宰府に飛駅使を発した内容は、要所の警備、賊の追討、有功者の行賞などを命令すること、種々の祈祷をおこなうこと、などであった。
イライラしながらも援軍を送ることもなく、公卿らの対応は次の報告を待つ怠慢きわまりないものでありました。

4月25日、太宰府からの後報が京都に届いた。その内容は各地での戦闘状況が記され、敵を撃退し、若干捕らえたことが報ぜられており、第一報いらい、わずか十日未満で不安はいちおう去ったことが判明したのである。都の連中はやれやれ、と思って決めたことといえば、捕獲した兵器や捕虜は、京におくる必要はないこと、筑前の四王寺で法会をおこなうこと、対馬・壱岐に役人を派遣して警備を固めること、兵糧や防人の用意すべきことなどを議決したにすぎない。

★殺戮され被害を受けた人々への慰問・救済いなど何も考慮しなかったのです。
現地の九州では甚大な被害を受けた大事件だったのでありますが、事件に対する都の対応と現地との温度差はひどいものだったと言わねばなりません。

刀伊の来襲の有様:長さ15mぐらいの船に5,60人を乗せ、鉾や太刀・弓矢で武装した連中が10隊、20隊と暴れ回り、山野を駆け巡って馬や牛を斬ってた食い、犬も殺して食う。手当たりしだいに人を捕らえて老人子供はすべて斬殺し、壮年男女はすべて船に追い込み、穀物を奪い、民家を焼くという、悪鬼のような乱暴を働いた。壱岐島のごときは、400人の島民が殺されたり捕らえられたりして、残る者はわずかに35人に過ぎなかったという。

◆太宰権帥・藤原隆家の活躍:彼については花山法皇に矢を射かけて兄伊周を左遷の原因を作った張本人というイメージがつきまといますが。人間には意外な役回りがあるものです。歴史物語『大鏡』に藤原隆家の功績が描かれています

◇隆家の大和魂、外敵を撃退、戦後を円滑に処理する◇
・・・刀伊が来襲した際、壱岐・対馬の住民を大勢の捕虜として、刀伊国へ連行していきました。その帰路を待ち伏せて、新羅(高麗の誤り)の国王が軍勢を発し、捕虜を全員奪還なさったのです。

しかも、使者をつけ、きちんと壱岐・対馬に送還なさったので、大弐隆家殿は、新羅(高麗の誤り)の使者に謝礼金の黄金三百両を渡して、帰国させなさいました。

捕虜をめぐる問題も、このように円滑に処理なさったので 、入道殿道長公は、やはりこの帥殿の隆家殿を捨てぬ者(使える奴)と評価なさっているです。だからでしょうか、世間からも、なかなかの信望を得ておられるようです。隆家殿のお邸(やしき)の門前には、いつだって要人の馬や牛車の三つや四つ立っていないことがありましょうか。・・・
※この当時の摂関政治は崩壊の兆しが徐々にあらわになってきた。(承平・天慶の乱)などの内乱収拾も武士団の援護なしには鎮圧でず、まして外国からの来襲に対しては、正規の防衛軍の編成すらおぼつかなかった。拉致された自国民の救出もできず、外国(高麗)に頼るしまつだったのです。

少々くどい、話が続きましたので、日本海の美しい景色をご覧いただきましょう。場所は能登半島の巌門です。

◆石川県羽咋郡志賀町富来牛下巌門-渤海と日本の交流をものがたる史跡があります。

海に突き出た岩盤に、浸食によってぽっかりとあいた洞門は幅6m、高さ15m、奥行き60mもある。自然が作り出した洞門の上には老松が生い茂る、能登金剛を象徴する光景をご覧あれ。


   巌門クリフパーク案内図   2012/06/12撮影
今もこのあたりの海岸には韓国のハングル文字の漂着物が多く見られるように、大陸から海流にのればさほど苦労なしで、ここ能登半島に辿り着く。
その昔、対岸の大陸には渤海という国があったが、我が国への使節団がしばしば能登へ漂着又は来航し、ここから都へと向かったのであります。・
・・朝鮮半島との歴史は長く、深いものですね。


巌門その1

巌門その2

巌門その3

巌門その4

巌門その5

巌門その6

巌門その7

巌門その8

巌門その9

巌門その10

いかがでしたでしょうか。旅するごとに思うのです、日本は本当に美しい国だと。