-長大な文学作品をを練り上げた式部の知性-
前回、式部を痛烈に批評してしまって、反論のある方々も多数いらしゃると思います。タカナの浅はかさだと笑って下さい。『源氏物語』を読めば、単なる愛欲の世界を書いたのではないと・・・、では何故に54帖もの物語になったのかは謎ですが。こんな屁理屈をいうと「すなおに物語を読みなさい」とお叱りを受けそうですね。確かに、この長編は当時の貴族の慣習・生活様式・食事・教養・人生観等々が行間にちりばめられているのを見出すことができます。奥が深いのだ。
◎『日本語の古典』の著者で明治大学教授・山口仲美氏は『源氏物語』をとおして紫式部を次のように評価されています。
「紫式部の言葉の使い方は実に緻密ですべて計算され、操作されているいる。一方では徹底的に描き分けし、一方では事物を巧みに関連付ける。描き分けと関連付けという二つの操作を見事にこなしつつ、文長も巧妙に操作して、作者は長大なロマンを作り上げて行った。紫式部は、言葉をあやつる天才だったのです。」
◇女盛りの頃の紫上を-にほひ多くあざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の香りにもよそへられ-「あざあざ=あざやかなり」という擬態語で形容している。
(色香が溢れ鮮烈な美しさをたたえていらっしゃった盛りの頃には、むしろこの世に咲くに花の美しさにたとえられ)
◆光源氏の愛欲には、少しへきえきしますが、フィクションの世界であって、道長などの例外を除けば実際の貴族がそれほど奔放に生きることが出来たとは思えません。寧ろ、男女関係ほど不可解で難儀なものはないと考えるのです。
愛欲の世界は、一種の人間の業なのではないかとも思います。
若き日の谷崎潤一郎(1913年)
晩年の佐藤春夫
檀 一雄
明治から昭和時代にかけて活躍した作家で『源氏物語』を翻訳した谷崎潤一郎と詩人・作家、佐藤春夫との一人の女性(石川千代)をめぐる争奪戦(細君譲渡事件)は凄まじい。
佐藤春夫は千代宛に書簡(大正10年)・原稿用紙40枚にもわたるラブレターを出しました。受け取った千代はどう感じたでしょうね。異常ともとれる、女性への執着は、誰かと似てはいませんか。潤一郎と春夫、この二人は豊富な女性遍歴をもつ人物です。
作家とは、ある意味でこうした経験がアイデアの源かも知れませんね。
昔、檀 一雄(女優・檀ふみの父)作『夕日と拳銃』という映画を少年時代に見ました。タカナには、彼が佐藤春夫を師と仰いでいたことなど知るよしもありませんでしたが。昭和61年(1986)、ライフワークともいうべき映画『火宅の人』を見て思ったのです。檀 一雄も師匠春夫とよく似た女性遍歴の業火に焼かれ生涯を終えたのではないかと。
如何ともし難い「心にまかせぬ憂き事=あわれ」の世界が人間界であり、今も延々と続いいる人間の業かもしれません。
◆第21帖◇乙女◇源氏の教育観・学問と大和魂
-源氏の嫡男・夕霧を大学へ入学させるにあたって大宮に説明した言葉。-
「・・・高い家柄の子に生まれ、官職や位階が思いのままになり、はぶりをきかせて何でも見下す癖がついてしまうと、苦労して学問を身につけようという気は、全然なくなってしまいます。
・・・学問(才)を基礎にして、はじめて実際能力(大和魂)の効用が発揮されるのです。入学当初は、官位が低くて不満だろうが、最終的に、国家を支える重臣になるべき心構えを習得するなら、私が死んだ後も安心だというわけで入学させました。今はぱっとしないが、この私が後ろ盾になる以上、貧乏学生などと、馬鹿にして笑う人間は一人もいないと思います」
・現代の不遜なお坊ちゃん官僚や政治家に聴かせたい言葉ですね。
学問と大和魂とが相互に補完する人間でなければ、国家の重臣は務まらない、と和魂漢才-日本精神の二重構造性が明確に分析されている。
やまと‐だましい【大和魂】 ‥ダマシヒ
①漢才(かんざい・からざえ)すなわち学問(漢学)上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂(わこん)。源氏物語(少女)「才を本としてこそ、―の世に用ひらるる方も」→漢才。
②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。椿説弓張月(後編)「事に迫りて死を軽んずるは、―なれど多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるの(あやまち)なり」
※「大和魂」という言葉は、戦時中、好戦的な闘志のみをさすかのように歪曲されて、若者を戦場に駆りたて大陸や太平洋で無残な死に追いやったことを決して忘れてはなりません。
この源氏の教育観は為時から漢学の素養を受けた紫式部の父親像を反映しているのではないでしょうか。
◆第25帖◇蛍◇文学論-物語とは何か
玉鬘(たまかずら)が源氏をうそつきの作り話をする人だと切り返したのに対して・・・
源氏は、「無粋にも、物語をけなしてしまったね。物語というものは、神代から人間の世界のことを書きつけてきたものだそうだ。『日本紀』(=日本書紀)などの歴史書は、ほんの一面的な記述に過ぎないのだよ。物語にこそ、真実を求める生き方がていねいに書かれてあると思う」と言って笑った。
・・・「物語は、実在する人のことだからといって、事実通りに語ることはないけれど、よいことも悪いことも、この世に生きる人間の姿について、見ても聞いてもそれきりにしておけないような話題で、後世にも語り伝えさせたい事柄を、自分の心にしまいこんでおけなくて、語り出し始めたものなんです。
好意的に語る場合にはよいことばかりを選び出し、聞き手に迎合しようとして、悪事でも珍しいものを選び集めてあるが、善悪どちらに関したことでも、すべて、この人間界のことばかりなのだ。・・・」
この文学論は、紫式部の真骨頂が発揮されている箇所でもあると思います。タカナも「歴史書よりも、物語にこそ、真実を求める生き方がていねいに書かれてある」という式部の文学論に共感したのです。吉川英治や司馬遼太郎の作品群を読んだときも実感しました。『三国志』、『新平家物語』、『項羽と劉邦』、『竜馬がゆく』など。歴史上の人物になりきってしまうような錯覚を覚えました。
それだけ、影響力があるという証左でありましょう。
◆ところで、長広舌をしていると、疲労し甘いものが食べたくなるものです。お菓子の話を『源氏物語』に拾ってみましょう。
椿餅(左)と亥の子餅
◎ 旧暦10月の亥の日、多産のイノシシにあやかり、子孫繁栄や健康を祈願して「亥の子餅」を用意する場面
第9帖◇葵◇第3章 紫の君の物語 新手枕の物語
[第2段 結婚の儀式の夜]
その晩、亥の子餅を御前に差し上げた。こうした喪中の折なので、大げさにはせずに、こちらだけに美しい桧破籠などだけを、様々な色の趣向を凝らして持参したのを御覧になって、君は、南面にお出になって、惟光を呼んで、「この餅を、このように数多くあふれるほどにはしないで、明日の暮れに参上させよ。
今日は日柄が吉くない日であった」と、ほほ笑んでおっしゃるご様子から、機転の働く者なので、ふと気がついた。惟光、詳しいことも承らずに、「なるほど、おめでたいお祝いは、吉日を選んでお召し上がりになるべきでしょう。ところで子の子の餅はいくつお作り申しましょう」と、真面目に申すので、「三分の一ぐらいでよいだろう」とおっしゃるので、すっかり呑み込んで、立ち去った。「物馴れた男よ」と、君はお思いになる。誰にも言わないで、手作りと言ったふうに実家で作っていたのだった。
いのこ‐もち【亥の子餅】
亥の子の祝に食う餅。いのこのもちひ。能勢餅(のせもち)。→御成切(おなりきり)
碁石ほどの大きさに平たくつくった亥(い)の子餅。紙に包んで将軍などから臣下に与えた。
◎若い人々が蹴鞠に興じた後、ちょっと腰かけて光源氏の息子らが「椿餅」食べる場面。
第34帖◇若菜上◇第14章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴
[第1段 蹴鞠の後の酒宴]
大殿がこちらを御覧になって、「上達部の座席には、あまりに軽々しいな。こちらに」 とおっしゃって、東の対の南面の間にお入りになったので、皆そちらの方にお上りになった。兵部卿宮も席をお改めになって、お話をなさる。
それ以下の殿上人は、簀子に円座を召して、気楽に、椿餅、梨、柑子のような物が、いろいろないくつもの箱の蓋の上に盛り合わせてあるのを、若い人々ははしゃぎながら取って食べる。適当な干物ばかりを肴にして、酒宴の席となる。
す‐の‐こ【簀子】
竹や葦で編んだ簀。
水切りのため竹や板を間をすかせて張った床・縁、または台。浴室や流しに用いる。
劇場の舞台の天井。ぶどう棚。
角材をいう。平安時代の規格では方4寸。
つばい‐もちい【椿餅】 ‥モチヒ
(ツバキモチイの音便)あまずらをかけ、ツバキの葉で包んだ餅。つばいもち。源氏物語(若菜上)「―・梨・柑子やうの物ども」→つばきもち
つばき‐もち【椿餅】
粉(しんこ)や道明寺粉(どうみょうじこ)製の種で餡を包み、上下にツバキの葉をあしらった餅菓子。春
「つばいもちい」に同じ。
こう じ【柑子】
〔「かんじ」の転〕
①ミカンの一種。葉は小さい。果実はウンシュウミカンより小さく,果皮は黄色ないしオレンジ色で薄い。果肉は淡黄色で酸味が強い。コウジミカン。
②襲 (かさね)の色目の名。表裏ともに濃い朽ち葉色。
柏餅や桜餅ほどの知名度はないものの、現在の和菓子のレパートリー一つ。餡を包んだ道明寺か求肥の生地を俵形にし、上下を椿の葉で挟む。つややかな椿の葉が美しい菓子である。
どうみょうじこ【道明寺粉】
道明寺糒 (ほしい)をひいて粉にしたもの。道明寺。
◇堅苦しい話ばかりでなく、食事の話題にすれば、心が和みますね。