-紫式部は如何なる批判も想定ずみで、男女の愛欲を肯定したのか?-
『源氏物語』を読んでいて、不可解に思ったことを少々述べてみたい。
1.「在原業平」のところでふれましたように、当時の貴族は国司に任命されて赴任するとか、道長の巡礼などの例外を除くと、殆ど都を出なかったのです。ところが、『源氏物語』では明石、石山寺、宇治、長谷寺など都以外の地名が多数出てきます。『源氏物語』の執筆は紫式部(みんなが、そう思っているだけではないのか?)だけか疑問に思います 。なぜなら、『紫式部日記』に清書係の話が記されており、物語執筆にあたり何らかの役割分担があったことがうかがえます。誰かが取材に赴いたとしても、おかしくありません。
2.物語では桐壺帝の中宮である「藤壺」と「光源氏」の不義密通によって生まれた子が「冷泉天皇」とされております。実像の「第63代冷泉天皇:延長元年(950)~寛弘8年 (1011)」は皇太子時代から精神の病ゆえの奇行が目立ったとある、非常にお気の毒な方でありました。この方がまだ生存中に不義の落とし子としてフィクションであれ、物語に記したことは許されることではありません。
一条天皇もこのような皇族の恥を容認して『源氏物語』を読み回したとしたら解せない話ではないでしょうか。
3.紫式部によれば、教養とは「ひけらかす」ものではないとある。公の場で披露するもではなく、密かに『新楽府』講義を中宮彰子にしたように目立ってはならない。他に許されるとしたら、私的な「物語」という娯楽文芸の中ではOKという考え方でありました。
漢学の素養が深かった、式部を彰子の教育係にした一条天皇の思惑と一致したようです。
宮中の世論づくりに紫式部は巧み(策士)だったのですね。清少納言を徹底的に酷評して、そのなれの果てまで言及しています。その影響で清少納言は後々、『古今著聞集』などには清少納言の落魄説話が満載されたり、『古事談』には、「鬼形之法師」と形容される出家の姿となり、兄・清原致信が源頼親に討たれた際、巻き添えにされそうになって陰部を示し女性であることを証明したという話さえあります。ライバルとはいえ、あまりにひどい扱いではないでしょうか。
私的な「物語」という娯楽文芸の中ではOKという考え方が成り立つとすれば、2の不義密通によって生まれた子を「冷泉天皇」と平気で記載したとしたら、紫式部の教養とは、こと「男女の愛欲の世界」に関してはなんでもOK、という非常に無礼な思想ではないかと考えます。
◆第12帖◇須磨◇不倫の発覚で流される。京から地方へ、都人から田舎人へ。ここで、光源氏は人格の幅を広げる。
「須磨」とは罪・けがれを除く意味の「澄ます「澄む」と音が通じていて、源氏が禊ぎするのにふさわしい地名とされる。うまい語呂合わせですね。
◆第13帖◇明石◇この地に退去しても源氏の病は止まらない。明石の君を身ごもらせる。

明石海峡 2010/05/03撮影
この頃、都では「朱雀帝」の夢枕に故桐壺帝が立ち、帝は眼病に悩むようになった。以後、政局は波乱が続いたので、帝は召還を決めた。源氏の家臣一同の喜びはたとえようもない。・・・京に戻った源氏は、昇進して政界中央に返り咲いた。
実際の「第61代朱雀天皇:延長元年(923)~天暦6年(952)」の治世は「承平天慶の乱」が起こったり、富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、また皇子女に恵まれなかったこともあってか、朱雀帝は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、30歳で崩御された。苦労が絶えなかった方だったのですね。
紫式部が生まれるずっと以前の天皇で、しかも、「第61代朱雀天皇」を何故、選んで「物語」に登場させたのか、その意図は?
「明石」には、「明かす」に通じて、明るい・明るくするなど祝意(源氏が昇進し、政界中央に返り咲いた)があるとか。本当に明石に行ったのではなく、源氏を復帰させるための掛詞に過ぎないのでは?
◆第14帖◇澪標(みおつくし)◇明石の君の出産に紫の上(源氏の正妻)は嫉妬する。当然な感情ですが、明石の君の生んだ姫君を後に引き取って育てるとは。紫の上の感情の変化には戸惑いを覚えます。
◆第15帖◇関屋◇巻名の由来:空蝉と源氏が偶然出会った逢坂の関所の館「関屋」による。
空蝉(過去に、蝉の抜け殻のように、夜着を脱ぎ捨てて、源氏の手を逃れた女性)は常陸(ひたち)の介になった夫とともに常陸国に下った。
源氏の須磨退去の事件はその地で耳にした。明石から帰京した翌年の九月、源氏は石山寺に参詣するが、その折、任果てて上洛する常陸の介一行と逢坂山で出会う。
一行は車馬からおりて源氏一行を通した。・・・そのうちに、常陸の介は老衰から空蝉を子息に頼んで死去する。夫を失った空蝉は、継子の河内の守に言い寄られ、運命のつたなさを感じて出家してしまった。可哀想な女性ですね。源氏は後に罪の償い(二条院に迎える)をする。
■源氏が参詣したとされる、石山寺を見学いたしましょう。

石山寺境内図
〔石山寺沿革〕
聖武天皇の勅願により天平勝宝元年良辨僧正によって開基され、歴朝の尊祟あつい由緒ある寺院である。西国巡礼十二番の札所。
本堂(国宝)は縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀君の修補になるもの。
本尊観音は勅封になっている。
堂内「源氏の間」は紫式部が『源氏物語』を書いたところと伝え、本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している。
多宝塔は美しい均斉美をもった鎌倉期の建築であり、鐘楼・大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。
境内の奇岩はいわゆる石山の名の出た石で硅灰石(けいかいせき)からなり、天然記念物に指定されている。
【硅灰石】石灰岩が高温マグマにより熱変成したもの。

1 .東大門:建久元年(1190)に源頼朝の助力によって建立されたと伝えられるが、慶長年間に再建に近い大修理を受けて現在の姿になったそうです。 2012/05/23撮影

2. 芭蕉句碑:芭蕉翁は、ここ石山寺を度々訪れています。この句は元禄3年(1690)の冬の日に作られたものです。
石山の 石にたばしる 霰(あられ)かな
句の解釈:石山寺の名の由来でもある幾重にもなった巨大な硅灰石の上に、白く固いあられが激しく降り注いで、たちまちあたりへと飛び散って行きます。
その光景からは、石とあられがぶつかり合うときの硬くリズミカルな響きがきこえてくるようです。
(大津市)

3. 参道

4. 観音堂

5. 毘沙門堂-1:近世後期に造営されたもの。施主は兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝で、大津や大阪の大工が大阪で木材の加工彫刻を行い、現地で組み立て造営したものである。
堂内に兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)・吉祥天・善膩師童子(ぜんにしどうじ)の三体を祀っています。(滋賀県有形文化財)

6. 毘沙門堂-2:毘沙門天立像
とばつ びしゃもんてん【兜跋毘沙門天】
毘沙門天の一つ。唐代に中国の西域に現れ,外敵から国土を守ったという。〔「兜跋」は吐蕃 (とばん)の転かという〕

7. 蓮如堂:慶長7年(1602)の造営。蓮如堂は、淀殿による慶長期の境内復興の際に、38所権社本殿(滋賀県指定)の拝殿として建築されたもの。
明治以降、蓮如上人6歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれている。

8. 御影堂:室町時代のの建立。堂内の内陣須弥壇には弘法大師・良辨・淳祐(しんにゅう)の遺影(御影)を安置してある。

9. 石山寺の巨大な硅灰石:溶岩のかたまりのようである。

10. 多宝塔(国宝):鎌倉時代、建久5年(1194)に建立されたもので、現存する多宝塔としては最古のものである。総高17m。

11. 月見亭-1:江戸時代後期の造営と推定されている。多宝塔の東、瀬田川を見下ろす眺望のよい位置にあり、その名のように月をめでるために建てられた。

12. 月見亭-2:下から写したもの。

13. 石山寺から見た瀬田川の眺望-1

14. 石山寺から見た瀬田川の眺望-2

15. 源氏苑の紫式部ブロンズ像:寛弘元年(1004)紫式部が石山寺に参籠し、『源氏物語』を書き始めると伝えられている?京都市上京区の廬山寺でも同じような表現でありましたね。いづれも伝説の域を出ません。謎の多い女性ではあります。

16. 無憂園-1:日本庭園の美

17. 無憂園-2

18. 「紫式部源氏の間」-1:本堂の相の間の東端にある。
あい の ま【間の間・相の間】
(「相の間」と書く)主要な二つの部屋の間にあるつなぎの部屋。社寺建築で,本殿と拝殿,礼堂と祠堂 (しどう)との間にある部屋。権現造り・八幡造りなどにみられる。
柱間 (はしらま)寸法の一。京間と田舎間との中間の広さ。六尺間。

19. 「紫式部源氏の間」-2:紫式部が石山寺に参籠し、『源氏物語』を書き始めたという様を人形にしたもの。もっともらしい演出ですね。

土佐光起筆・源氏物語絵巻、20帖『朝顔』
石山寺は確かに『源氏物語』にちなむ、縁起絵巻が残っており、絵師とも深い関係があります。室町時代から江戸期にかけて土佐光吉、光則、光起などの大和絵師が数多くの源氏絵を手掛け、それらが石山寺に所蔵されているのは注目すべきことではあります。豊浄殿でその一部を鑑賞いたしました。